ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

秋月種実の墓

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串間市の西林院にある秋月種実の墓を参拝してきました。写真手前から種実、種守(種実5男)、種実正室の墓。

あの有名な秋月種実の墓が串間にあるのはすごい😆

秋月種実は戦国時代に福岡の秋月(現在の朝倉市)を治めていた武将。

大友宗麟島津義久龍造寺隆信についで九州第4の男!といわれた秋月種実。

小国でありながら父と兄の仇である大友宗麟と戦い、最盛期には36万石の大名にまで秋月を大きくしました。

1587年 豊臣秀吉が島津を征伐するため九州を攻めた際、秋月種実は島津に味方し、豊臣軍の大軍勢に古処山城を囲まれ、秀吉に降伏。

戦後、秀吉の九州仕置きにより秋月氏は、筑前の秋月を没収され、日向国高鍋と串間を領地としてもらう(国替え)

秋月種実は息子の秋月種長に家督を譲り隠居。秋月氏は新しい領地となった串間に入国。
秋月種長は櫛間城、秋月種実は福島港を抑える金谷城に入りました。

1596年秋月種実は京の伏見で亡くなり、息子の秋月種長は串間に西林院をつくり種実の遺髪を墓に埋めたのが今の墓。

1604年秋月種長は政治の拠点を串間から高鍋に移し、高鍋城に入り高鍋藩主となりました。串間は高鍋藩の飛地として幕末まで続きます(о´∀`о)

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秋月種実の墓

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秋月種守の墓

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秋月種実正室の墓

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秋月種実の菩提寺 西林院。

櫛間城

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串間市大字西方にある櫛間城です。櫛間城は野辺久盛が築いたといわれています。大覚寺義昭事件により野辺氏が串間の領地をおわれると、伊作久逸が城主となりそこから代々島津一族のお城となりました。

1587年豊臣秀吉九州征伐後の九州仕置きで、筑前秋月より高鍋と串間に国替えとなった秋月種長がこの櫛間城に入りました。1604年に秋月種長は政治の拠点を串間から高鍋に移し廃城となりました。

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櫛間城の中心部は上ノ城工場団地になっていて遺構は消滅しています。

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櫛間城の工場団地にある公園。

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近くには櫛間城の土塁(城塁)らしきものがあります。

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櫛間城の堀切。中心部に遺構は残っていませんが、外郭と見られる藪の中には堀切や空堀が残っていました。

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北からみる櫛間城の外郭。この山の中に堀切や空堀があります。

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西林院の周りにも空堀が巡らされています。

新納駿河守是久の墓

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宮崎県串間市北方の極楽寺にある五輪塔群。この中に1485年の飫肥城の戦いで伊東氏に味方し戦死した新納駿河守の墓があります。

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新納駿河守は飫肥城主 新納忠続の弟ながら、櫛間城主 伊作久逸と一緒に伊東祐国の軍勢に加わり楠原の上城に陣をしいています。

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極楽寺

足利(大覚寺)義昭の墓

串間市内には足利(大覚寺)義昭のものといわれる墓が3つあるので参拝してきました😊

「義昭」と書いて「ぎしょう」と読みます。

足利義昭室町幕府6代将軍 足利義教の弟で、大覚寺に出家していたため大覚寺義昭とも呼ばれます。
1440年5代将軍が亡くなった時に後継者候補の4人のうちの1人になりましたが、くじ引きの結果、兄の義教が6代将軍となると義昭は大覚寺を出奔し、京都から日向国の串間に逃れ、串間の豪族 野辺氏により永徳寺で匿われました。
1441年足利義教は義昭が串間にいるのを知り、島津忠国の軍勢に永徳寺を攻めさせ、義昭は自害しました。

 

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義昭が攻められ自刃した永徳寺。

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永徳寺のこの山の上に義昭の墓があります。

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永徳寺に残る義昭の墓。

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串間市西方の住宅地にある義昭の墓。

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墓石には義昭の亡くなった年「嘉吉元年3月13日」が刻まれている。

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串間市南方にあるひで神様(義昭の墓)の入口。

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金谷小向かいの山にあるひで神様。義昭の墓であると伝わります。

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義昭を祀る金谷神社。

 

足利将軍家の血をひく武将の墓が串間にあることを、地元の人はあまり知らないみたいで、墓には説明版や標注がないので普通の人がたどりつくのは難しいかもしれません。

義昭の最期の地となった串間。行政はもっと史跡整備に力をいれてほしいなと思いました。

行きは串間駅、帰りは福島今町駅まで歩き日南線で油津に帰りました。

暑いなか歩いて疲れましたが、義昭の3つの墓を1日でまわることができてよかったな🤗