ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

酒谷城

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日南市酒谷にある酒谷城。

飫肥から都城方面に向かう街道沿いにあります。北側からみると細長い山に築かれたのがわかります。

北郷の郷之原城とともに飫肥城の両翼を担う酒谷城は、都城方面から飫肥城へ攻める軍勢を食い止める役割がありました。

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酒谷城の縄張り図。日南市教育委員会の歴史まちあるきマップより。

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酒谷城へは酒谷神社の長い階段を登り、酒谷神社の社殿裏から上の写真の酒谷城の堀底道へ降りれます。

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堀底道に入るとすぐに見える酒谷神社のある曲輪5―1と曲輪3―2の間の堀切。

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曲輪4―2と曲輪5―3の間の堀切。

堀切がVの字を描いていて大規模で見ごたえがあります。

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二ノ丸は空堀らしき通路を挟み、曲輪2―1と曲輪2―2の2つに区画されています。上の写真は曲輪2―1で土塁がめぐります。

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曲輪2―1に残る土塁。

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通路を挟んだ曲輪2―2に残る土塁。

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本丸と二ノ丸の間の大空堀

本丸から二ノ丸方面を見たところ。大規模で迫力があります。

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本丸への虎口。

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本丸の曲輪1。

藪に覆われ荒れ果てています。

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本丸に残る土塁。

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曲輪5―1にある酒谷神社。

 

酒谷城はシラス台地を複数の堀切で分断し独立した曲輪を生み出す南九州特有の縄張りです。曲輪間の堀切は明瞭に残っています。

 

酒谷城の歴史。1469年〜1487年 飫肥城主の島津氏が飫肥城の出城として酒谷城を築きました。その後は伊東氏と島津氏の争奪戦が繰り広げられ、城主はたびたび変わりました。1568年 伊東義祐が酒谷城を攻め落とすと家臣の長倉淡路守を城主として配置し、伊東48城のひとつに数えられました。

1587年 豊臣秀吉九州征伐で伊東祐兵が再度飫肥城主に返り咲くと、酒谷城は川崎権助が入り、後に猛将として知られる山田宗昌(匡得)が城主となりました。

山田宗昌が国境防衛策として振興した四半的は日南市内にいまも伝わります。