ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

伊東平右衛門の墓

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日南市南郷町贄波の海岸近くに伊東平右衛門祐続の墓があります。

伊東平右衛門は飫肥城主 伊東祐兵の家臣でしたが、長倉甚兵衛、川崎又右衛門らとともに、伊東義賢(祐兵の兄の子)こそ伊東家の嫡流であり、飫肥の領主は祐兵ではなく義賢がふさわしいと思う一派でした。

伊東の家臣にはこのように義賢を当主に立てる動きがあったため、伊東祐兵により何度か粛清されています。

長倉甚兵衛、川崎又右衛門も切腹を命じられました。伊東平右衛門は何の咎めもありませんでした。

豊臣秀吉朝鮮出兵を行った際、飫肥城主 伊東祐兵も秀吉から出陣命令を受け、伊東軍は500名の兵で飫肥から朝鮮へ出陣。そのなかには伊東平右衛門も従軍していました。

1598年 豊臣秀吉の死により朝鮮征伐が終わり、伊東軍も朝鮮から引き上げます。朝鮮から船で贄波海岸に着いた伊東平右衛門は下船のとき、贄波海岸に待ち伏せていた飫肥の家臣により謀殺されてしまいます。

伊東祐兵による暗殺だと思われます。祐兵は朝鮮で伊東義賢、祐勝兄弟にも毒を飲ませ暗殺。

飫肥藩を磐石にするための伊東家の粛清劇🙄

贄波で非業の死を遂げた伊東平右衛門の墓は、贄波の人たちに祀られ、現在地元では合格・戦勝の神様として参拝が絶えないそうです。