ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

伊東祐国の供養塔

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飫肥城の北にある東楽寺跡近くには1485年の飫肥城攻めで戦死した伊東祐国(すけくに)の供養塔があります。

伊東祐国は西都の都於郡城主で伊東氏12代当主。

飫肥城主 新納忠続と櫛間城主 伊作久逸が島津家臣同士でありながら仲間割れ。

伊作久逸は伊東氏に援軍を求め新納忠続の籠る飫肥城を攻めます。対する飫肥城の新納忠続は島津本家に援軍を依頼します。

伊東祐国は飫肥の楠原に本陣を置きますが島津軍との乱戦のさなか伊東祐国は楠原で戦死。伊東軍は撤退。島津軍が勝利し新納忠続は飫肥城を守りきります。

伊東祐国の戦死により、伊東家にとって飫肥城の攻略は長年の宿願となり

のちに祐国の孫の伊東義祐は祖父の因縁の地である飫肥城を28年間、執拗に攻め続け 1568年 飫肥城を島津から奪い取り 祖父の無念を晴らすのです。

その後 島津に奪い返されますが、1587年 伊東義祐の三男、伊東祐兵が飫肥城主に返り咲き、初代飫肥藩主となります。

1588年 伊東祐兵は祐国の亡くなった楠原に伊東家の菩提寺 報恩寺を開き、伊東家の累代の墓所とします。

伊東祐国の墓は、西都市光照寺にあります。