ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

飫肥城

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日南市飫肥にある飫肥城飫肥藩主伊東家5万1千石の居城です。戦国時代にはこの飫肥城をめぐり島津氏と伊東氏の争奪戦が繰り広げられました。

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岡本氏が作成した飫肥城の縄張り図を転載。飫肥城はシラス台地を深い空堀で区画して独立した丘陵(曲輪)を造り出す南九州特有のお城の縄張りです。飫肥城には大手口、十文字口、常真口、谷ノ口、永吉口の5つの入口があり、大手口、十文字口、常真口は三曲輪と城外の境界となる崖に設けられていました。

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飫肥城の大手門。門前の両脇は三曲輪とニ曲輪を分断する空堀が巡らされています。大手門の中からニ曲輪になります。

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大手門横の三曲輪とニ曲輪を分断する空堀。右が武家屋敷などがある三曲輪。

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ニ曲輪と三曲輪を分断する空堀は折れがあり長く続いています。

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大手門の枡形。

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大手門付近の土塀を支える控柱。

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大手門西側にある土塁。

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犬馬場を巡る土塁。

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犬馬場を巡る土塁。大手門の東側から空堀沿いに続いている。

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飫肥城の本丸南虎口。

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飫肥城の本丸櫓台石垣。現在櫓台の石垣の上には伊東祐永のときに使われた飫肥城の鐘が移築されている。

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松尾丸と本丸の間の登城道。

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飫肥城の本丸東虎口。

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飫肥城の本丸跡。日向灘震源とする大地震が1662年、1680年、1684年と3度続き飫肥城は石垣が崩れたり、本丸御殿のあった旧本丸に地割れが入るなど甚大な被害が出ました。1691年飫肥藩5代藩主 伊東祐実が飫肥城の大改修工事を実施し、中ノ丸と今城の丘陵を崩して本丸を移転させています。現在残る本丸の石垣はその時の改修によるものです。本丸御殿が移された新しい本丸は現在飫肥小学校になっており遺構はありません。

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松尾丸の石垣。登城道から見える東側のみ石垣が築かれています。

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松尾丸。シラス台地の独立丘陵を感じることができる曲輪。

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松尾丸の切岸。飫肥城の大改修のときに本丸を広げるため中ノ丸とともに松尾丸の丘陵も削られています。

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松尾丸に復元された本丸御殿。中は伊東氏の歴史がわかる資料が展示されています。

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松尾丸を巡る土塁。分厚くて高まりますね。

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松尾丸と旧本丸の間にある水ノ手。

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旧本丸の切岸。

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旧本丸の石垣。

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旧本丸の東虎口。

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旧本丸の東虎口横の石垣。

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飫肥城の旧本丸。初期飫肥城の本丸御殿があった場所。

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旧本丸に残る土塀の控柱。

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旧本丸の北虎口。

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旧本丸と中ノ丸残地の間の堀切。

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旧本丸北虎口から見る中ノ城と北ノ城。中ノ城と北ノ城は現在グランドになっていて遺構はありません。

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飫肥小学校に残る今城の城塁。飫肥小学校の校門前は二重木戸があり搦手口の役割をしていました。

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旧本丸と西ノ丸の間の堀切。

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松ノ丸と西ノ丸の間の堀切。右側が西ノ丸。

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西ノ丸の虎口から見る永吉口方面。道路を挟んだ右側が松ノ丸。

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西ノ丸。堀川運河を作った伊東祐実が隠居した場所。最近まで日南市の貯水槽があり立ち入り禁止だったエリア。

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西ノ丸の北端に残る土塁。

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西ノ丸の土塁。

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西ノ丸からの景色。西ノ丸は酒谷川に面する崖の上にあり絶景。飫肥城の中で眺めがいい場所ですね。

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西ノ丸から見た松ノ丸。昔は丘陵でしたが削られて低くなっていて北側は住宅地になっています。

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八幡城。田ノ上八幡宮が鎮座しています。この鳥居の前は空堀となっており東側の谷に下がっています。現在空堀は埋められ道路になり地形が残ってます。

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八幡城の曲輪の切岸。かなり高さがあり傾斜が急です。

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八幡城の南側にある武家屋敷に見られる石垣。

 

ここから飫肥城の入口である5口を紹介します。

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大手口。

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大手口には折れのある石垣が残ってます。

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十文字口。

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十文字口の三曲輪と城外の境界の崖。

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常真口。

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常真口の三曲輪と城外の境界の崖。

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谷ノ口(やのくち)。石垣が草で覆われている。石垣の前には水堀を兼ねた池がありましたが、現在はありません。谷ノ口は普段人が入らない場所なので、ヘビに注意しながら藪コキしました。あとで聞いたとこによると、この辺りはマムシの巣といわれ地元の人が近寄らない場所でした😱

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谷ノ口の角隅の石垣。

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永吉口。

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三曲輪と城外の境界の崖。飫肥城の三曲輪と城外の境界は崖になっているので、この崖のラインを見ながら飫肥を散策すると飫肥城の大きさや概要がわかるかと思います。

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天然の外堀である酒谷川を挟んで南側から見た飫肥城と城下。

 

1485年に新納忠続が守る飫肥城を攻めた伊東祐国が戦死し、祐国の孫である伊東義祐は祖父の無念を晴らすため、島津豊州家の飫肥城を28年間攻め、1568年島津忠親は伊東義祐に飫肥城を明け渡します。念願の飫肥城を攻略した伊東義祐は三男の伊東祐兵を飫肥城主とし、飫肥城は伊東48城の一つになりました。

ところが1572年に伊東義祐が木崎原の戦いで島津氏に大敗すると家臣の寝返りが相次ぎ、1577年伊東義祐は豊後の大友宗麟を頼り日向国から亡命、飫肥城の伊東祐兵も飫肥城を捨てて父の義祐に合流するため佐土原城へ向かいました。

飫肥城は島津領になりましたが、1587年 豊臣秀吉九州征伐に従った伊東祐兵が飫肥城主に復帰し伊東家を再興。幕末まで伊東家が飫肥藩主として飫肥を治めました。

伊東家の執念が生んだドラマチックなストーリーですね🥰

 

◆戦国時代の歴代の飫肥城

島津季久(島津豊州家初代)

新納忠続(島津本家家臣)

島津忠廉(島津豊州家2代)

島津忠朝(島津豊州家3代)

島津忠広(島津豊州家4代)

島津忠親(島津豊州家5代)

伊東祐兵

上原尚近(島津本家家臣)

伊東祐兵