日南市東郷の福谷地区には伊東祐兵の家臣 海野藤十郎の墓があります。
戦国時代に現在の宮崎県の大部分を領して伊東氏の全盛を築いた日向国主 伊東義祐。
1572年 木崎原の戦いで伊東義祐は島津氏に大敗し伊東48城の一部の家臣団が次々に島津氏に寝返り、国を維持するのが難しい状況になりました。
1577年 伊東義祐は豊後の大友宗麟を頼り日向国を捨てて亡命します。
この時、伊東義祐の三男の飫肥城主伊東祐兵も島津氏に飫肥城を包囲され、父の義祐に合流するため、飫肥城を捨てて佐土原城に向かいます。
伊東氏がいなくなった飫肥城には島津氏の家臣 上原長門守尚近が入ります。
伊東祐兵の家臣 海野藤十郎は主君が飫肥城から去った後も、島津領となった飫肥に残り福谷の地に隠れ住み島津の内情を探りました。
しかし翌年島津方に潜伏先が発覚し、飫肥城の軍勢に屋敷を囲まれ海野藤十郎は自刃し果てます。
その10年後、伊東祐兵は豊臣秀吉による島津討伐の先導役を務めた功績により1588年 飫肥城主に返り咲きます。
飫肥に戻った伊東祐兵は海野藤十郎を忠臣として飫肥藩の家中に語り継いだといいます。
海野藤十郎の墓は1677年に海野藤十郎の曽孫平部長右衛門俊英が百回忌の法要の際に建てたもので、海野藤十郎が隠れ住んだ屋敷跡に残ります。