宮崎市大字長嶺にある長嶺城に登ってきました。
長嶺城は伊東氏の家老だった長倉能登守の居城です。長倉能登守は伊東義祐に謀反を起こした武将としても知られます。
長嶺城の位置。サンホームの向かいの小山が長嶺城です。南には細江城のあった細江神社があります。
登口付近にある長嶺城の標柱です。倒れていたので写真をとるために立ててみました😊
長嶺城の登口。夏草に覆われて道がなくなっていますが、ヘビやマダニを怖れず半袖半パンで藪を掻き分けながら進軍します!
山の中に入ると木々に覆われているためか、藪もなくスッキリしていました。山頂の主郭を見上げると斜面には曲輪が段々に造成されています。
長嶺城の主郭。石碑が祀られています。山頂の主郭までは2〜3分ほどで登れます。
北側から見た主郭。
山頂の主郭から登ってきた東側斜面を見下ろす。斜面の曲輪が段々になっているのがわかります。
主郭西側の帯曲輪。
主郭から西側の斜面を見下ろすと、西側も段々に腰曲輪が造成されています。
西側の腰曲輪に残る巨石。
西側の腰曲輪群を見上げる。
西側の腰曲輪。
小さな丘陵の山城ですが腰曲輪などの遺構がみられてよかった😊
長嶺城主の長倉能登守は伊東尹祐(13代)、祐充(14代)と2代にわたり伊東家の家老をつとめた武将です。伊東家の15代目当主を決める際、祐充には義祐と祐吉の2人の弟がいましたが、義祐を嫌った長倉能登守ら重臣は一番下の弟、祐吉を擁立し15代当主に据えます。伊東祐吉が数年で病死すると伊東義祐が16代当主となり、長倉能登守の立場も気まずくなります。
1540年長嶺城の長倉能登守は兄である穆佐城の長倉上総介、石塚城、田野城らの武将とともに伊東義祐に対し謀反を起こします。世にいう「長倉能登守の乱」です。この戦いに飫肥城主 島津忠広も長倉能登守を支援するため援軍を送ります。
飫肥城の援軍と合流した長倉能登守の軍勢と伊東義祐の軍勢は現在の宮崎市花山手付近で激突しました。激戦になり長倉能登守は戦死し飫肥の軍勢も多数討たれ、この合戦は伊東義祐の圧勝に終わります。宮崎市花山手には「合戦坂」や「能登坂」といった地名が今も残っているそうです。