ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

勝岡城(三股町大字蓼池)

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宮崎県北諸県郡三股町にある勝岡城に行ってきました。

勝岡城は庄内十二外城の1つで、1599年の庄内の乱では伊集院方の伊集院如辰、朝倉十助、中俣玄蕃が城を守りました。

上の写真は天然の外堀である沖水川越しに見た勝岡城の山です😊

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山の東側にある勝岡城の入口を遠くから見たところ。鬱蒼とした森の中に曲輪が残ります。

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入口から入ると右手にいきなり空堀がお出迎え!左が主郭の切岸、右が土塁になります。

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主郭と三郭の間の堀切。左の切岸が主郭、右の切岸が三郭。

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主郭の虎口。主郭の入口脇に勝岡城の標柱が建っています。

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勝岡城の標柱。

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主郭にある土塁。若干夏草で覆われています。

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主郭。

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主郭西側の堀切。主郭と二郭を分断しています。

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二郭。二郭は農場となっていて立入り禁止になっています。

勝岡城は1318年に樺山資久が築いたのが始まりといわれ、その後は北郷氏の城になりました。1485年 飫肥城攻めで伊東祐国が戦死し、伊東氏の恨みを恐れた島津氏は三俣院の領地を伊東氏に割譲しました。勝岡城には伊東氏家臣の加江田氏が入ります。1520年 都於郡城主 伊東尹祐は北郷氏に備え家臣の荒武藤兵衛に勝岡城を大改修させ城主とします。1532年 北郷氏が三俣院を攻め伊東氏から領地を奪還すると勝岡城は北郷氏の城になります。

このように勝岡城の城主は幾度となく変遷します。のちに豊臣秀吉により都城の領主は北郷氏から島津家宿老の伊集院忠棟に代わりますが、1599年 京の島津屋敷で伊集院忠棟が主君の島津忠恒に惨殺されると、都城にいた忠棟の息子 伊集院忠真は都城に籠り島津氏に対して反乱を起こします(庄内の乱)。勝岡城も都城の支城(庄内十二外城)として伊集院如辰らが城主となり島津勢を迎え撃つことになりました。

伊集院忠真が徳川家康の仲介により島津氏に降伏すると、都城の領主は北郷氏が再度復帰し都城島津氏として幕末まで続きます。