筑紫野市に聳える標高257.4mの天拝山の山頂に築かれた天判山城に登ってきました。天判山城は戦国時代に鳥栖、筑紫野、那珂川あたりに勢力があった筑紫広門の出城です。天判山城の東の尾根続きにある飯盛城、北の尾根続きにある堂ノ山砦と合わせて、3つの山城で一体の城郭群である「武蔵ノ城」と想定されているようです。筑紫広門の家臣 帆足弾正が城主であったといわれています。
天判山城の位置。飯盛城→天判山城→堂ノ山砦というルートで尾根伝いに登りました。飯盛城、堂ノ山砦については次のブログ記事で紹介します。
天判山城の縄張り図(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1より転載)。主郭の東と西に曲輪があり、東側の尾根と南側の尾根に堀切が2条づつあります。
山頂の主郭。
主郭東側の曲輪。
主郭西側の曲輪。
東側尾根の堀切。
南側尾根の堀切を見下ろす。
南側尾根の堀切。
天判山城の山頂主郭からの景色。大野城や水城、大友方の高橋氏の宝満山城が見渡せます。
飯盛城の尾根方面と天拝山の登山道の分岐点にある天判山城の道標。
豊臣秀吉の九州征伐の際に筑紫広門は島津氏から大友氏(豊臣側)に寝返ったため、1586年 岩屋城の戦いの前哨戦で島津氏の軍勢に攻められ、本拠の勝尾城とともに天判山城も落城しています。