ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

伊集院忠真の供養塔(宮崎県小林市野尻町)

f:id:mai9mami:20210822135649j:plain

小林市野尻町の国道268号沿いに島津氏に暗殺された悲劇の都城領主 伊集院忠真の供養塔があります。

1599年に島津家家老だった父の伊集院忠棟が主君の島津忠恒に京の伏見屋敷で突然斬殺される事件が起きます。息子の伊集院忠真は居城の都城でその報せを聞くと島津氏の攻撃に備え都城に籠城。都城の十二の外城に家臣を配置し領内の守りを固めます。世にいう「庄内の乱」です。島津忠恒は3〜4万の軍勢で8000の伊集院氏を攻めますが、外城を守る伊集院軍の必死の抵抗により、1年近く経っても島津軍は伊集院氏の本城である都城を攻めることができず、徳川家康の仲介により島津氏と伊集院氏は和睦します。

伊集院忠真は都城を降伏開城し、島津氏から新たに頴娃1万石の領地を与えられます。こうして無事島津家臣として再出発の道を歩むかと思われましたが、島津忠恒はそんなに甘くありませんでした。庄内の乱から3年後の1602年島津忠恒は家康への挨拶のため上洛することになり伊集院忠真にも同行を命じます。そして上洛途中の野尻にて鹿狩りを催した際、忠恒は穆佐の郷士押川治右衛門と渕脇平馬に命じて伊集院忠真を事故に見せかけ射殺。伊集院忠真の母と弟3人も同日別の場所で殺害し伊集院一族は粛清されてしまいます。島津忠恒は恐ろしいですね。

f:id:mai9mami:20210822135705j:plain

伊集院忠真の五輪塔

f:id:mai9mami:20210822135721j:plain

左が押川治右衛門、右が平田新四郎の供養塔。平田新四郎は伊集院忠真と馬を交換して乗っていたため誤って射殺されたと言われていますが、父の平田増宗が島津氏の家督争いの際に島津忠恒とは別の人物を推していたため、その恨みで暗殺されたのが実情のようです。

f:id:mai9mami:20210822140116j:plain

伊集院忠真の供養塔の全貌。

f:id:mai9mami:20210822135756j:plain

伊集院忠真の供養塔の説明板。

f:id:mai9mami:20210831235132p:plain

伊集院忠真の供養塔の位置。