ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

野村文綱の墓(宮崎市高岡町)

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宮崎県宮崎市高岡町内山にある野村文綱の墓を参拝してきました。野村文綱は伊東四十八城の1つ、内山城(後の天ヶ城)の城主です。

墓は天守閣を模した天ヶ城歴史民俗資料館の東側にあり立派な伊東塔でした。

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1577年 伊東四十八城の野尻城主福永丹波守が伊東氏を裏切り島津氏に寝返ると、伊東氏の重臣は雪崩をうつように次々と島津氏に寝返ります。これが世にいう伊東崩れです。

内山城主だった野村文綱も伊東氏を見限り島津氏に寝返りました。

伊東義益の側室だった父野村松綱の妹 福園が、義益の正室となった阿喜多に、嫉妬して殺害されるという事件があり、野村氏は伊東氏に対して恨みをもっていました。

島津氏の家臣となった野村文綱は、島津氏の豊後大友氏攻めに従うことになりました。

1586年伊集院久宣、白浜重政、野村文綱を大将とした3000の島津軍は、女城主 妙林尼が守る鶴崎城を攻めます。

妙林尼は城の周りに落とし穴や柵をつくり南側から攻める島津勢は攻めあぐねました。妙林尼側も弾薬などがつき島津方と和睦し城を開城します。翌年、豊臣秀吉が小倉に入ったという知らせが届き、島津勢は薩摩へ撤退することになりました。

出発の前夜に妙林尼たちは島津の武将を酒でもてなし、翌朝島津隊は酔いが残った状態で鶴崎城を出ます。

妙林尼は乙津川に鉄砲隊を伏兵として配置しており、島津勢は鉄砲隊により壊滅、伊集院久宣、白浜重政が戦死。

野村文綱も負傷しその傷がもとで日向・高城で亡くなりました。野村氏の子孫は鹿児島藩士として続いています。