宮崎県えびの市大明司にある掃部(かもん)城に行ってきました。上写真の細長い丘陵が掃部城です。掃部城は宮ノ城のすぐ西にあり、宮ノ城と同様に飯野城と加久藤城の中間に位置することから、島津氏の連絡上の中継拠点として利用されました。別名、野城ともいわれています。1574年の木崎原の戦いでは島津義弘がこのあたりから鳥越城に撤退した伊東軍を確認し、一気に奇襲に向かったといいます。
掃部城の縄張り図。(えびの市の城館跡より転載して加筆)
細長い丘陵に位置し、4つの曲輪に区画されていたと想定されています。③と④の長い曲輪は芝栽培により上部を削平され遺構は消滅しています。①と②の曲輪にも土塁などの遺構はありませんでした。細長い丘陵の南に突き出た曲輪⑤は物見郭と推定されています。
②と⑤の間にある堀底状の道。
②〜③の切岸。
曲輪②。
丘陵の西先端にある曲輪①。
曲輪②の東端から見た曲輪③方面。
曲輪③と曲輪④。中央左の窪みあたりが堀切があったとされる場所。(③と④の境界)
③と④の間の堀切跡。
曲輪④。
掃部城の曲輪④から見た宮ノ城。
曲輪⑤に行くまでの尾根の切岸。
物見郭と推定される曲輪⑤。円墳のように丸くなっています。
曲輪⑤。
南から見上げる物見郭⑤の丘陵。
掃部城の西側にある登り口。途中から密度のある藪でした。
掃部城の位置。