ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

馬関田城(宮崎県えびの市西川北)

f:id:mai9mami:20220327100907j:plain

馬関田城は北原氏の庶流である馬関田氏の居城です。東福城、馬関田古城とも呼ばれています。現在馬関田(まんがた)城はネット上でも正しくない位置で紹介され、どこにあったか不明瞭になっていました。自分も以前行った場所が違っていたので今回馬関田城のあった馬関田地区を再調査し、地元のおじちゃん、おばちゃんたちに城山のあった場所を教えて頂き、正確な城跡の場所を特定することができました。

f:id:mai9mami:20220408210545p:plain

馬関田城の地形図。上図の赤いラインが城山の範囲になります。馬関田城の城山は調査が行われる前にシラス台地の土砂採取によりほとんど削られてしまい、かろうじて一部がシラス剥き出しで、はりぼてのように残っています。曲輪配置などわかっていませんが、亀之城、鶴之城、多福城の3つの区画があったといいます。城山のあった西側には大圓寺跡の墓地があり、奥に城主であった馬関田右衛門佐の墓が残ります。

f:id:mai9mami:20220327102229j:plain

北側から見た城山跡地。奥には城山の残欠部分、手前の平地になっている部分も城山の範囲です。

f:id:mai9mami:20220327101615j:plain

城山の残欠部分。

f:id:mai9mami:20220327103647j:plain

西側から見た城山の残欠部分。

f:id:mai9mami:20220327103714j:plain

西側の城山の範囲。ちょうど道路になっているのが城山の境界です。

f:id:mai9mami:20220327101741j:plain

東側から見た城山の残欠部分。

f:id:mai9mami:20220327102018j:plain

城山の残欠部分の最高所。

f:id:mai9mami:20220327103117j:plain

大圓寺跡から見た馬関田城の城山。

f:id:mai9mami:20220408211407p:plain

馬関田城の位置。

馬関田城が歴史に出てくるのは馬関田右衛門佐が城主のとき。1558年北原兼守(北原氏13代)が死去すると北原氏で家督問題が起こります。兼守の舅である伊東義祐は北原氏の家督問題に介入し、兼守の妻だった自分の娘(麻生)を馬関田城主の馬関田右衛門佐(まんがた うえもんのすけ)に再嫁させ北原氏の家督を継がせます。伊東義祐は事実上、北原氏の乗っ取りに成功し真幸院(えびの市)を手に入れますがこれに危機感を感じた島津貴久は人吉の相良義陽、都城北郷時久とともに北原兼親を擁立して、北原氏の再興に動きます。島津、相良の支援を受けた北原兼親は馬関田城を攻め落とし、北原氏の家督を奪い返します。