宮崎県えびの市大河平にある今城です。大河平氏は大河平城が堅固な城でなかったため、島津義弘のすすめで、大河平城の谷を挟んだ向かいにある丘陵に今城を築いて移ります。1564年今城主 大河平隆次のとき今城合戦の舞台となります。上写真中央もっこりした山が今城。
今城の縄張り図。(えびの市の城館跡より転載)
三方を谷に囲まれた要害で細長い主郭の北側尾根は竪堀が明瞭に残っています。主郭北側の土橋も立派でした。
道路沿いにある今城の案内看板。
今城の竪堀①
竪堀①
北側の尾根道。竪堀①〜竪堀②の間あたり。
登城道の両脇に残る竪堀②
竪堀②(東側)
竪堀②(西側)
竪堀②を過ぎたところにある主郭への登り道。
主郭北側の土橋。
主郭から見た土橋方面。
主郭。
主郭西側の崖。下には帯曲輪が見えます。
主郭東側。
東側から見た主郭先端。
主郭の南にある腰曲輪。
今城の北尾根から見える大河平城。
今城と大河平城。谷を挟んで向かいあうのがわかります。
1564年5月29日に起こった今城合戦について。
大河平氏の元の主君だった北原兼親は、大河平隆次を快く思っておらず、島津義弘に「今城は飯野城に近く、いざというときには飯野城より援軍を出せば事足りる」と進言し、島津義弘は今城から兵300を撤退させます。大河平氏は130余りの軍勢で今城を守ることになりました。
今城の兵が手薄になったことを知った伊東義祐は1000の軍勢で今城を攻めます。今城は三方を谷に囲まれた要害で伊東軍は攻めあぐねます。城主の大河平隆次は再三の伊東氏の降伏勧告を受け入れず徹底抗戦し、伊東側にかなりの損害が出ました。
伊東義祐は作戦を切り替え、今城の南西にある大河平氏傘下の永野氏の永野城を攻め落とすと、生け捕りにした永野城の兵から今城は北側から攻めやすいという情報を得ると、北側にある三本の堀を埋めながら伊東軍は今城を攻めます。
大河平隆次は城兵とともに城を討ってでて伊東軍に突撃。大河平隆次を始めとした今城の城兵130すべて討死の玉砕となりました。
大河平隆次は15歳ながら見事な最期でした。
大河平氏の健闘もあり伊東氏側にも500人の戦死者が出ました。両軍合わせて630余りの戦死者が出た今城を巡る激しい戦いは今城合戦と呼ばれています。
今城の位置。今城へ行くには伊東氏が攻めたのと同じく、北側尾根からのルートになります。林道は狭いので注意が必要です。
今城への林道にはその都度、案内が設置されています。