ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

城攻め

惣陣ヶ丘(鹿児島県霧島市)

鹿児島県霧島市福山町にある惣陣ヶ丘に登りました。惣陣ヶ丘は1561年の廻城合戦で島津貴久、義久親子が本陣とした場所です。合戦のあらましは肝付兼続に奪われた廻久元の居城である廻城を奪還するための戦でした。上写真は惣陣ヶ丘の遠望。山の斜面にカタカ…

富士塚城

神奈川県横浜市泉区下飯田町にある富士塚城に行ってきました。鎌倉時代の武将、飯田五郎家義の館があったとされる場所で、飯田城、飯田五郎家義館とも呼ばれています。飯田家義は石橋山の戦いで大庭景親の娘婿であることから初めは平家方に着きますが、戦い…

和田屋敷(神奈川県小田原市)

豊後大友氏の発祥地 相模国 大友荘(現在の神奈川県小田原市東大友、西大友)を散策。大友氏は鎌倉幕府の御家人だった大友能直が初代で大友荘を本拠としていました。能直の養父は鎌倉殿の13人でもある中原親能です。上写真は鎌倉時代の大友能直の館といわれ…

上原館(大分県大分市)

大分県大分市上野丘西にある上原(うえのはる)館に行ってきました。上原館は府内の大友館の南の台地にあり、大友館の詰の城的な役割を持っていたといわれています。上写真は上原館の主郭南側土塁。 上原館の縄張り。現在住宅地に埋没している上原館ですが城…

綾城(宮崎県綾町)

宮崎県東諸県郡綾町にある綾城に行ってきました。綾城は室町時代に足利尊氏の家臣である細川小四郎義門がこの地に下向し、その子義遠が地頭となり綾城を築城し綾氏を名乗ったのが始まりです。綾氏は8代続き伊東氏の家臣となってこの城を去ると、長倉若狭守が…

上和田城山(神奈川県大和市)

神奈川県大和市上和田にある上和田城に行ってきました。上和田城は上和田の地頭だった和田義盛の城跡と伝わります。 大和南高校前にある上和田城山遺跡の説明板。 西側の城跡ぽい雰囲気。 城山史跡公園の標柱。 上和田城の位置。

加瀬城(神奈川県川崎市)

神奈川県川崎市幸区南加瀬にある加瀬城に行ってきました。加瀬城は太田道灌の築城伝説が残る城跡です。上写真は新川崎駅付近から見た加瀬城の丘陵。 加瀬城の位置。新川崎駅の近くにあり、現在夢見ヶ崎動物公園になっています。夢見ヶ崎は太田道灌がこの加瀬…

南関城(熊本県南関町)

熊本県玉名郡南関町にある南関城(鷹ノ原城)に行ってきました。南関城は加藤清正の命により家臣の加藤正次が熊本城の支城として1600年に築城し城主となります。縄張りは加藤清正のものといわれています。一国一城令や島原の乱の後に破城した痕跡を今でも見…

小城(鹿児島県鹿屋市輝北町)

鹿児島県鹿屋市輝北町下百引にある小城です。別名「くずれ城」といわれています。百引地方を治めた伊賀倉氏(猪鹿倉氏)の白岩城の出城といわれ、1538年に肝付兼続の攻撃を受け落城しています。上写真は南側から見た小城の丘陵。 小城の地形図。小城の丘陵に…

鶴羽城(鹿児島県鹿屋市)

鹿児島県鹿屋市花岡町にある鶴羽城に行ってきました。鶴羽城は江戸時代に花岡島津氏の居館として木谷城の山麓に築かれました。 地形図。山麓の鶴羽城は鶴羽小学校跡となり、木谷城は鶴羽城山公園として整備されています。 鶴羽城の石垣。 鶴羽城の門。 門に…

将軍山(宮崎県都城市)

宮崎県都城市高城町にある将軍山(春日山)に行ってきました。将軍山は1339年に畠山直顕が月山日和城に籠もる南朝方の肝付兼重を攻めるために本陣を置いた山です。畠山直顕は足利尊氏の命で日向地頭職となり穆佐城を拠点とし南朝方勢力を一掃していました。…

奈佐木城(宮崎県小林市須木)

宮崎県小林市須木にある奈佐木城に行ってきました。奈佐木城は伊東四十八城の1つで城主は肥田木三郎兵衛尉でした。現在城跡は奈佐木城址公園となっていますが草が生い茂り藪化しています。上写真は北側から見た奈佐木城の城山。 縄張り図。主郭北側には2段の…

須木城(宮崎県小林市須木)

宮崎県小林市須木にある須木城に行ってきました。須木城は伊東四十八城の1つで代々須木米良氏の居城でした。須木城主だった米良筑後守重方は伊東義祐から須木城の他に小林城や野首城の城主も任されるほど信任の厚い武将でしたが、1572年の木崎原合戦において…

登能尾山(宮崎市清武町)

宮崎市清武町にある登能尾山です。清武城の出城の1つといわれ、城跡には伊東祐堯の墓所があります。上写真は登能尾山の山頂の主郭。 主郭脇の空堀状の地形。 清武城と切通の道を挟んだ右側の丘陵が登能尾山。 登口にある伊東祐堯の墓の標柱。 登能尾山の位置…

跡江城(宮崎市跡江)

生目古墳群の台地南東端にある跡江城です。南北朝時代の1336年南朝方の瓜生野八郎右衛門尉が跡江城に拠って挙兵しますが、北朝方の伊東祐持、土持宣栄らの攻撃を受け落城しています。上写真は東側から見た跡江城の丘陵。跡江城は山の中にきれいに遺構が残さ…

向ノ城(宮崎県西都市)

宮崎県西都市鹿野田にある向ノ城。伊東氏の本拠だった都於郡城の出城の1つ。まわりは住宅地になっていますが曲輪はきれいに整備されています。 地形図。 曲輪①入口の標柱。 曲輪①。 曲輪①西端。土塁のように高くなっている。 曲輪①から堀切越しに見た曲輪②。…

日隠城(宮崎県西都市)

宮崎県西都市鹿野田にある日隠城に行ってきました。伊東氏の本拠だった都於郡城の出城の1つで北側を守る城でした。上写真は日隠城の山の遠望。山容は越後の春日山城に似ていますが、畑地として利用された形跡があり遺構は不明瞭でした。 日隠城の登り道。尾…

穆佐城(宮崎市高岡町)

宮崎市高岡町にある穆佐城に行ってきました。穆佐城はシラスの丘陵を利用した山城で、たびたび日向国の戦乱の舞台に登場します。南北朝時代には足利尊氏の命を受けた畠山直顕が入り北朝方の拠点とすると、戦国時代には島津氏と伊東氏の争奪戦のすえ、島津久…

登見城(鹿児島県鹿屋市輝北町)

鹿児島県鹿屋市輝北町にある登見城に行ってきました。登見(とげん)城は登見山の山頂に築かれた城で、市成氏の垂野城の出城としてのろし台があったといわれています。いまは山頂に通信施設みたいなのがあり遺構はありません。上写真の中央奥の高い山が登見…

日高城(宮崎市田野町)

宮崎県宮崎市田野町乙にある日高城に行ってきました。日高城は仮屋原城(田野城)の西方の支城といわれています。 日高城の地形図。主郭の南側には土塁があり、土塁の先には城域と南側台地を分断する空堀と土橋が残ります。 登口。 山頂の主郭までの登り道。…

垂野城(鹿児島県鹿屋市輝北町)

鹿児島県鹿屋市輝北町市成にある垂野城に行ってきました。垂野城は市成氏の居城であり市成城とも呼ばれています。市成氏は南北朝時代に島津貞久により滅ぼされ、領主は山田忠経、肝付兼続、島津征久、伊集院忠棟と変遷し、1614年に敷根立頼が入ります。敷根…

梅谷城(宮崎市田野町)

宮崎市田野町の梅谷集落の北東丘陵にある梅谷城です。南北朝時代に築かれた岩城といわれていますが城主や築城年など詳細な歴史はわかっていません。 梅谷城の地形図。 梅谷城の曲輪は牛舎の堆肥場になっているため入れません。 梅谷集落入口の橋にある城址の…

高隈城(鹿児島県鹿屋市)

鹿児島県鹿屋市上高隈町にある高隈城(松尾城)に行ってきました。高隈城は肝付氏の支城として築城され、南北朝時代には南朝方の楡井頼仲が入りますが、北朝方の畠山直顕の命を受けた祢寝清種に攻められ落城しています。戦国時代には志布志の新納氏、肝付氏…

大姶良城(鹿児島県鹿屋市)

鹿児島県鹿屋市大姶良町にある大姶良城に行ってきました。大姶良城は内城を中心とした12城から成りその規模は肝付氏の高山城をしのぐといわれる山城です。古くは禰寝院北俣の領主だった富山氏が居城とします。富山氏の子孫は大姶良氏、横山氏、志々目氏、浜…

垂水城(鹿児島県垂水市)

鹿児島県垂水市市木にある垂水城に行ってきました。垂水城は1120年に藤原舜清が築城したといわれ3年余で蒲生に移ると石井氏を経て戦国時代には伊地知氏の支配下に置かれました。伊地知氏が垂水を去ると1599年には島津以久が垂水城に入り垂水島津家となります…

加瀬田ヶ城(鹿児島県鹿屋市輝北町)

鹿児島県鹿屋市輝北町平房にある加瀬田ヶ城(加瀬田城)に行ってきました。加瀬田ヶ城は肝付氏の高山城の重要な支城で、高山と三俣の中間点に位置しています。南北朝時代の1336年北朝方の島津貞久が南朝方の肝付氏の加瀬田ヶ城を攻め、城主の肝付兼隆は35日…

西原城(鹿児島県鹿屋市輝北町)

鹿児島県鹿屋市輝北町上百引にある西原城に行ってきました。西原城は百引地方を治めた肝付方の図師氏の居城です。肝付氏の北辺の監視城だったそうで万一の際は狼煙を上げ肝付氏の本拠である高山方面に急を報せたといわれています。 西原城の地形図。 曲輪①と…

古城(宮崎市清武町)

クロスモール清武の裏にある古城という山城に登ってきました。古城は歴史的な詳細はわかっていませんが位置的に清武城の出城的な役割をしていたと思われます。また清武城よりも前に築かれた城なので古城という名称がついているそうです。 古城の地形図。入口…

清武城(宮崎市清武町)

宮崎県宮崎市清武町加納加納甲にある清武城に行ってきました。清武城は伊東四十八城の1つで城主は長倉伴九郎、上別府宮内少輔でした。この2人の武将は1572年の木崎原の戦いで戦死しています。伊東氏が衰退すると一時島津方の伊集院久宣が入りますが1587年の…

城ヶ尾城(鹿児島県曽於市)

鹿児島県曽於市財部町下財部にある城ヶ尾城です。曽於市と都城市の境目に位置する山城で、都城の北郷忠相が1528年城ヶ尾の戦いで陣を置いた場所です。北郷忠相は伊東祐充と新納忠勝の両方から援軍要請を受けますが、伊東氏有利と見て伊東祐充と連携し新納忠…