ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

和田城

f:id:mai9mami:20200404084103j:plain

日南市南郷町潟上にある和田城に登りました。

和田城は潟上小学校の裏山にあった山城です。いかにも城跡がありそうな立派な山です。手前を流れるのは潟上川。f:id:mai9mami:20200404223421j:plain

和田城の縄張り図。日南市教育委員会の歴史まちあるきマップに縄張り図が無いお城なので、歩いた結果をもとに自作で描きました。

北東、南東、北西に尾根がのびていて、北東と南東には尾根を遮断する堀切がありました。帯曲輪が広いのも印象的でした。

 

f:id:mai9mami:20200404231838j:plain

和田城の城攻めルート。和田城の山の中腹にある墓地までは舗装された道があります。墓地の奥から山に入る道があり、そこから尾根を目指し藪こきしながらの山登り。

f:id:mai9mami:20200404133001j:plain

和田城の登口。山の中腹の墓地まではこの道で上がれます。

f:id:mai9mami:20200404132653j:plain

墓地の奥から山に入るとこんな藪になっています😁 この藪を掻き分けて登ると北東の尾根に出ます。尾根に出たらあとはまっすぐ上に向かえば城跡に到着できます。

f:id:mai9mami:20200404105609j:plain

北東の尾根を遮断する堀切。尾根を登っていくと最初に現れる和田城の遺構です🤩

f:id:mai9mami:20200404132148j:plain

北東の堀切を城内から見下ろす。

f:id:mai9mami:20200404102426j:plain

堀切から切岸を登っていくと曲輪4に入ります。曲輪4は東西に長い曲輪で西は主郭方面に向かう切岸が3段あり、東端も一段高くなっています。また曲輪4には上写真左手前のような堀らしき溝があります。

f:id:mai9mami:20200404120128j:plain

曲輪4から見る曲輪3の切岸。左から上がる道があり曲輪3に入ります。

f:id:mai9mami:20200404102232j:plain

曲輪2の切岸と曲輪3。

f:id:mai9mami:20200404101532j:plain

曲輪2から見た主郭。

f:id:mai9mami:20200404100241j:plain

山頂の和田城の主郭。中央にアンテナが立ちます。

f:id:mai9mami:20200404095314j:plain

主郭の北西隅。山城の遺構かはわかりませんが石があります。

f:id:mai9mami:20200404114324j:plain

曲輪4から帯曲輪にでる城道。曲輪3切岸から下るとすぐに下の帯曲輪に降りれるこの城道があります。上写真は帯曲輪から城道を撮影。

f:id:mai9mami:20200404114130j:plain

和田城の南に広がる帯曲輪。

f:id:mai9mami:20200404125056j:plain

帯曲輪の東のほうに進むと城の遺構らしき地形になっています。

f:id:mai9mami:20200404125041j:plain

帯曲輪の東には曲輪4の東端に上がる城道があります。

f:id:mai9mami:20200404124945j:plain

曲輪4の東端の一段高くなっている曲輪。

f:id:mai9mami:20200404122833j:plain

南東の尾根を遮断する堀切。左の切岸が曲輪4。帯曲輪を東に進むとあります。

f:id:mai9mami:20200404092310j:plain

帯曲輪を西にいくと主郭の背後にでて北西の尾根にでる道があります。

右が主郭の切岸、左が北西の尾根へ続く道。左は土塁のように少し高くなり、もしかしたら堀切なのかもしれない。

f:id:mai9mami:20200404092226j:plain

主郭背後の切岸。高さがあります。

f:id:mai9mami:20200404094536j:plain

和田城の位置。

 

地元のおじいちゃんたちに山を登る道を聞いたところ、昔子どもの頃は山に登ったことあるけど何十年登ってないから、今は荒れて道がなくなってるからいけないよと言われましたが、無事到達できてよかったです。

和田城があったのはおじいちゃんたちも把握していて、地元の人は「わだん城」と呼んでます。

和田城は南郷でマイナーな城跡なので期待してなかったけど、縄張りがしっかり現存していて遺構もわかりやすく素晴らしい山城でした。

和田城の歴史はわかっていませんが飫肥城の出城だったと言われています。また脇本にある湖雲ヶ城や陣之城と近いことから、薬丸湖雲に関係のある城だった可能性もあります。

郷之原城

f:id:mai9mami:20200329151610j:plain

日南市北郷町郷之原にある郷之原城に登りました。

昔の北郷中学校跡(現在グラウンド)の高台が郷之原城のあった場所と言われ、ネット上には遺構はなし、とあるんですが実は一部残っているんですね。上の写真は郷之原の高台を北郷インター付近から遠望したところ。高台の平らな部分が北郷中学校のあったグラウンドで、その右側にある小山に郷之原城の遺構が残ります。

f:id:mai9mami:20200329234753j:plain

郷之原城の縄張り図。日南市教育委員会の歴史まちあるきマップより。

北郷中学校跡のグラウンドも郷之原城の範囲になります。ネットに上がっている情報ではここが主郭などの中心的な場所だったといわれますが、歴史まちあるきマップの縄張り図ではグラウンドの後ろの小山が郷之原城の主郭だったとしています。この説をもとに説明していきます😊

郷之原城のあった小山は曲輪が6段で構成され、山頂の主郭までは切岸を登っていく感じでした。曲輪によっては虎口らしき遺構もあります。

f:id:mai9mami:20200329113018j:plain

北郷中学校跡のグラウンドから見える右奥の小山が郷之原城の主郭があったとされる場所です。(グラウンドに郷之原城の主郭や二郭があったという説もあり)

f:id:mai9mami:20200329140917j:plain
忠霊塔の裏にある郷之原の小山。忠霊塔裏に登口があります。

f:id:mai9mami:20200401215154j:plain

郷之原城の登口。ここから登るとすぐに山道が2つに分岐しているので左に曲がると城内に入ります。

f:id:mai9mami:20200329133527j:plain

登口から城内に入ると空堀のような地形になっています。城内から登口方面をみたところ。

f:id:mai9mami:20200329133443j:plain

城内に入ると見えてくる曲輪6南側の切岸。

f:id:mai9mami:20200329133014j:plain

曲輪6西側の切岸。鋭く削られています。

f:id:mai9mami:20200329133003j:plain

曲輪6西側には虎口らしきものがあり、ここから曲輪6の中に入ります。

f:id:mai9mami:20200329132526j:plain

曲輪5の切岸。この脇から登ると曲輪5に入ります。

f:id:mai9mami:20200329132030j:plain

曲輪4の切岸。この脇から登ると曲輪4に入ります。

f:id:mai9mami:20200329131253j:plain

曲4から見た曲輪3の虎口付近。

f:id:mai9mami:20200329130921j:plain

曲輪3の虎口。ここを登ると曲輪3内部に入ります。

f:id:mai9mami:20200329120912j:plain

曲輪3からみた曲輪2の切岸。

f:id:mai9mami:20200329130054j:plain

曲輪2。奥に見えるのは主郭の切岸。

f:id:mai9mami:20200329122155j:plain

主郭の切岸。土塁のようにも見えます。

f:id:mai9mami:20200329122035j:plain

山頂の主郭。主郭は狭いです。

f:id:mai9mami:20200329134330j:plain

主郭背後の堀切。かなり大規模で迫力があります。

f:id:mai9mami:20200329134419j:plain

堀切から見る主郭の切岸。かなり高さがあり圧倒されます!

f:id:mai9mami:20200329161441j:plain

上郷地区から見た郷之原城

 

郷之原城飫肥城の東の守り、酒谷城は飫肥城の西の守りとして、飫肥城の両翼を担った出城。飫肥城主 島津忠広は伊東義祐に備え、家臣の羽島越後守と宇宿小次郎の2名を郷之原城に配置しました。

しかし、1545年 伊東家の家臣 河崎三河守は謀事により羽島を味方に誘い、羽島は諌める弟を斬り殺し、宇宿と共に伊東方の水ノ尾砦(貝殻城)に来て、城を伊東方に渡しました。

郷之原城は河崎三河守が城主となり伊東方の城となりました。

 

郷之原城を登った感想として山の中は藪が醜く、すべての曲輪内が藪化していて城攻めには藪こきが必要で苦労しました😂 それでも立派な堀切が見れたり、遺構が残ってるいるのを確認できてよかったです。

酒谷城と並ぶ出城としては小山の部分だけでは主郭も狭いので、北郷中学校跡のグラウンドも城域とみてよさそうな感じがしました(о´∀`о)

 

烏帽子嶺砦

f:id:mai9mami:20200320111144j:plain

日南市大字宮浦にある烏帽子嶺砦に登りました。

烏帽子嶺砦は鵜戸神宮の西、新鵜戸トンネル真上の山にあり、鵜戸街道の七浦七峠の難所の1つ「烏帽子峠」をおさえる砦。1541年飫肥城主 島津忠広が伊東義祐の飫肥侵攻に備えて築きました。

山の形が烏帽子に似ているのが名前の由来です。

f:id:mai9mami:20200331221422j:plain
烏帽子嶺砦の縄張り図が無いので、自分で歩いた結果をもとに自作で描いてみました。曲輪の大まかな配置はイメージできると思います。烏帽子嶺砦のすぐ脇(北側)は烏帽子峠があり鵜戸街道が通っています。

f:id:mai9mami:20200330211353j:plain

烏帽子嶺砦までの登山ルートです。鵜戸随道の手前を左に上がる道があるのでそこを道なりにいきます。

f:id:mai9mami:20200328115802j:plain

この場所に出たら左に曲がります。ここから山に入り鵜戸街道の山道を目指して進みますが、案内標識はなく山の中も荒れていて分かりにくいので尾根筋の鵜戸街道にでるまで大変でした。

鵜戸街道の尾根にでたら左に曲がり、宮浦方面に鵜戸街道を登っていくと烏帽子峠に着きます。

f:id:mai9mami:20200328110800j:plain

烏帽子嶺砦の下を通る鵜戸街道。切通になっていて堀底道のような感じです。

f:id:mai9mami:20200328101406j:plain

烏帽子嶺砦の下にある烏帽子峠を宮浦方面からみたところ。巨石が砦っぽい。右を登れば烏帽子嶺砦です。

f:id:mai9mami:20200328110658j:plain

さらに烏帽子峠をすすんだところ。

f:id:mai9mami:20200320124025j:plain

烏帽子峠からの景色。サンメッセ日南を見下ろすことができます🤩

f:id:mai9mami:20200328095618j:plain

烏帽子峠を鵜戸方面からみたところ、堀切のような地形になっています。左を上がれば烏帽子嶺砦の曲輪2に上がることができます。

f:id:mai9mami:20200328095634j:plain

烏帽子峠から烏帽子嶺砦の曲輪2に上がる城道。砦の東側の段々の曲輪を登るルートもあります。本来の登城道はそちらかな。

f:id:mai9mami:20200328092010j:plain

烏帽子嶺砦の東側の曲輪は段々に造成されています。曲輪5から見た曲輪3、曲輪4。f:id:mai9mami:20200328093939j:plain

曲輪3の上から見た段々の曲輪。段々になっているのがわかります。

f:id:mai9mami:20200328094139j:plain

曲輪2からみた曲輪4。

f:id:mai9mami:20200328092820j:plain

主郭の南東側斜面にある巨石。

f:id:mai9mami:20200328094508j:plain

主郭斜面からみた曲輪2。

f:id:mai9mami:20200328094303j:plain

曲輪2から見た主郭の斜面。

f:id:mai9mami:20200328094726j:plain

山頂の主郭。主郭の大半は藪になっています。

f:id:mai9mami:20200328095001j:plain

さらに主郭を進むとアンテナと三角点があり、この付近だけはひらけています。

f:id:mai9mami:20200328112818j:plain

烏帽子嶺砦の下を通る鵜戸街道には二重堀のような地形もありました。

f:id:mai9mami:20200328110353j:plain

宮浦方面から烏帽子峠に向かう鵜戸街道。烏帽子嶺砦は宮浦方面からも登れます。

f:id:mai9mami:20200328102042j:plain

烏帽子峠に向かう鵜戸街道

f:id:mai9mami:20200328095931j:plain

ここを登れば烏帽子峠。宮浦方面から登ったほうが傾斜が急です。

f:id:mai9mami:20200320135939j:plain

新鵜戸トンネルと烏帽子嶺砦。

f:id:mai9mami:20200320151046j:plain

烏帽子嶺砦の位置。

 

島津忠広の飫肥城の出城だった烏帽子嶺砦。

1543年 伊東義祐は七浦七峠の要衝「瀬平峠」にある瀬平ノ城に陣を置き、烏帽子嶺砦を四方の山々から攻め、島津方の下田隠岐守と伊東方の薩摩坊頼運による一騎討ちがあり、薩摩坊は下田隠岐守を組伏せ討ち取りました。
これで勢いに乗った伊東軍は数多くの島津方の兵を討ち取り烏帽子嶺砦は落城。伊東氏は烏帽子嶺砦で生き残った島津の兵40人を捕縛し、このうち20人を敵方の飫肥に返し、残り20人は伊東領(西都市)に連行しましたが乱暴を働いたため10人に腹を切らせたといいます。

f:id:mai9mami:20200320130830j:plain

烏帽子峠からは伊東氏が陣取った瀬平ノ城も見えます。ここで両軍睨みあった思うと感慨深いですね。