宮崎県えびの市小田にある浄慶城に行ってきました。浄慶(じょうけい)城は加久藤城の搦手口を守る出城です。島津方の山伏 樺山浄慶の城で浄慶屋敷とも呼ばれています。1572年木崎原の戦いで伊東軍はまず加久藤城を攻めました。このとき、女中に扮した島津の間者により、伊東軍は攻めにくい搦手門に通じる鍵掛口を案内され向かいます。伊東軍は暗闇だったのと地理に疎いこともあり鍵掛口近くの浄慶屋敷の石垣を見て、加久藤城の外郭だと勘違いし浄慶屋敷を攻めます。浄慶親子3人は少ない手勢で大軍の伊東勢を相手に奮戦しますが戦死します。
浄慶城の縄張り図。(えびの市の城館跡より転載)
徳泉寺跡の裏山が浄慶城で曲輪は徳泉寺墓地となり、一番奥には戦死した浄慶の墓があります。浄慶城の麓は徳泉寺跡と浄慶屋敷のあった場所で、宅地や広場となり石垣が残っています。
浄慶城の案内版。
浄慶城の登り道は徳泉寺跡のお宅横の道から行きます。
浄慶城の登り道。
浄慶城の大手口。
浄慶城の入口。
浄慶城の入口入ってすぐの曲輪。
浄慶城からの眺望。下に見える広場が徳泉寺跡。
浄慶城の土塁。
土塁を逆側から見たところ。
浄慶城の曲輪。徳泉寺墓地となり加久藤郷の地頭の墓などが並びます。この中には大口の菱刈氏に関する墓石もあり、鹿児島から人が参拝にくるのだそう。
浄慶城の曲輪北側の高くなっている部分。
最高所の北側は国道221号線が分断している。
腰曲輪のような地形。
浄慶城東側の土塁。
浄慶城の東側は崖になっています。
浄慶城の樺山浄慶の墓方面を見たところ。浄慶の墓は徳泉寺墓地の奥の他の墓よりも高くなっている場所にあります。
樺山浄慶の墓。浄慶の墓は文献に出てくるだけで所在がわかっていませんでしたが、真っ二つに割れて地中に少し埋まった状態で地元の有志により発見されました。
麓の浄慶屋敷付近の石垣。
徳泉寺跡の石垣。
徳泉寺跡。奥の高台が浄慶城。
徳泉寺跡の石垣。
徳泉寺跡の説明板と墓石。
徳泉寺跡のある付近は硝石場(しょせっば)という地名だったそうで、地名を残すために建てられた水神様を祀る石碑。
今回浄慶城の山の地主の方に案内して頂きました。案内がなかったら浄慶の墓石がどれかわからなかったところでした。浄慶城は地元の方により大事にされている場所だと感じました。
浄慶城の位置。