上写真は筑紫平野の田んぼの中に残る松延城の本丸跡。周囲の低い田んぼは本丸を囲む内堀の跡です。本丸の周囲は平城の雰囲気がよく残されています😊
松延城の地図。地図に移る水路は松延城の水堀の跡で、この水路(堀割)により松延城の縄張りをある程度把握することができます。中央の本丸跡を囲む水堀は内堀の名残です。
本丸の入口。道の左右は内堀跡です。
本丸の南西隅。下を流れる水路が内堀の名残。
本丸南西隅。
本丸西側。
反対側の本丸南東にも内堀跡の水路。
松延天満宮から見た本丸東側。
本丸内部。
本丸東側の土塁跡。
松延城の本丸から見た北側の景色。右手には九州新幹線の線路が見えます。
北三ノ丸とその外側をながれる堀。
松延城の東にある松延天満宮。
松延城は山下城主 蒲池鑑広が佐賀の龍造寺氏の侵攻に備えるため家臣の樺島式部に築城させ城主としたのが始まりです。1587年 豊臣秀吉の九州仕置きにより立花宗茂が柳川城主となると松延城は柳川城の支城として家臣の立花三郎右衛門が城主になります。1600年関ヶ原の戦いで立花宗茂は西軍についたため改易となり、代わって田中吉政が柳川城となり、松延城には家臣の松野主馬が入ります。松野主馬はもともと小早川秀秋の家臣でしたが、関ヶ原の戦いで秀秋が徳川方に寝返る方針を固めると、徳川家康と戦いたかった松野主馬は秀秋に反対し戦場を離脱します。それを聞いた田中吉政が関ヶ原後に松野主馬を召し抱えています。松延城主となった松野主馬は松延城を大改修し、現在残る堀割などを築いたといわれます。
田んぼの中に残る本丸の城台が畑地となりながらも城跡の面影を残し、周囲を歩けば水堀の名残である水路が集落を流れます。案内板などはありませんでしたが楽しめる城跡でした🥰