ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

釣こう院跡(北郷氏の墓所)

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都城市庄内町にある釣こう院(ちょうこういん)跡に行って来ました。釣こう院は北郷数久(7代)の菩提寺として建立されたお寺です。

北郷(ほんごう)氏は戦国時代に都城を領した一族で、島津家4代 島津忠宗の6男 資忠が北郷(現在の都城市山田町一帯)の地を与えられ、北郷資忠(初代)と名乗ったのが始まりです。江戸時代に北郷姓から島津姓に戻したため都城島津氏とも呼ばれています。

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釣こう院の墓地には北郷氏 2代 義久、4代 知久、5代 持久、7代 数久、10代 時久の嫡男 相久の墓が残ります。

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左から北郷義久(2代)、北郷持久(5代)の妻、北郷数久(7代)の妻、北郷相久(10代時久の嫡男)の墓石になります。

・2代 北郷義久の墓

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義久は北郷資忠(初代)の嫡男。1375年に都之城(都城)を築き北郷氏の拠点を北郷から都城に移した武将で、現在の「都城」という地名の産みの親です。

 

・4代 北郷知久の墓

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 知久は北郷義久(2代)の五男。兄の北郷久秀(3代)、忠通が梶山城の戦いで戦死したため還俗し家督を継ぎました。島津元久のもと足利将軍に謁見し、「中務少輔」という官位を貰い、元久の死後も島津宗家のために各地を奮戦しました。

 

・5代 北郷持久の墓

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持久は大覚寺義昭を匿った罪で一時 都城を島津家に没収され、息子の北郷敏久(6代)の時代に北郷氏は都城に復帰しています。

 

・7代 北郷数久の墓

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数久は都城盆地の支配を確立させるため三俣院(三股町)に勢力を伸ばした伊東氏とたびたび争います。1517年 家督を嫡男 忠相(8代)に譲り安永城に隠居しました。

 

北郷相久の墓

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北郷相久は父の北郷時久(10代)に謀反の嫌疑をかけられ安永の金石城で自刃しています。

 

北郷相久の石柵

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相久が自刃した安永の金石城跡に建てられた石柵を釣こう院に移したもの。

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釣こう院の入口。現在はJA庄内支所の敷地になり北郷氏の墓地のみ残ります。