宮崎市清武町にある稲津掃部助重政の墓を参拝しました。稲津重政は飫肥藩初代藩主伊東祐兵の小姓から才覚を認められ25歳で清武城主となっています。1600年宮崎城の戦いでは伊東軍を指揮し西軍高橋方の宮崎城を攻め落としますが、のちに高橋氏が東軍に寝返っていたことがわかり同士討ちとなってしまいます。重政を妬む家臣たちは責任を重政に押し付け主君の伊東祐慶から切腹を命じられます。稲津重政は処分を不服とし清武城に籠もりますが、1602年伊東軍に攻められ自刃。29歳の早い生涯でした。妻の雪江も15歳ながら夫の稲津重政と運命を共にしています。
稲津重政の墓石は日向灘の方向を向いていましたが、飫肥藩の船がこのあたりの海域で度々沈没することから稲津重政の祟りではないかといわれ、墓石の向きは逆向きに変えられたといいます。
稲津重政の墓への登り道。
さらに階段があり結構な高台にあります。
高台にある稲津重政の墓。
稲津重政の墓。
墓石には稲津重政と妻雪江の戒名が刻まれています。
説明板。
標柱。