日南市酒谷にある山田匡得(きょうとく)の墓を参拝しました。
山田匡得は伊東氏の家臣で島津氏との合戦において前線で活躍し、伊東軍の猛将として島津から恐れられた武将です🤩
山田宗昌の名でも知られます。
彼が最後に城主をつとめた酒谷城の麓に墓は祀られ匡得神社となっています。匡得神社の背後の山が酒谷城です。
山田匡得の墓石には戒名である「学翁匡徳」、左に山田次郎三と刻まれています。
匡得神社の上にある家紋。
国道から匡得神社に向かう途中にある山田匡得記念碑
山田匡得は山田次郎三郎といい17歳の初陣で、島津方の豪の者 亀沢豊前守を組伏せて首を取ります。
1568年 伊東義祐が飫肥城を攻略する契機となった小越合戦(吉野方)では、飫肥城の島津方の援軍としてやってきた、都城の勝岡城主 和田民部少輔を討ち取ります。
1577年 木崎原合戦で島津に大敗し伊東義祐、祐兵親子が島津に追われ日向を離れたあとも、伊東氏の領地奪回のため、他の伊東氏残党とともに、新納石城に籠りますが、大友宗麟が島津に耳川の戦いで敗れたため、豊後に退き、大友の家臣佐伯氏のもとで軍師として活動し島津の戦いでまた活躍します。
この豊後にいたときに大江匡房の兵法を全部さとり得たと称し名を山田土佐入道匡得と号します。
1587年 伊東祐兵が飫肥城主に復帰すると、山田匡得は佐伯氏のもとを去り、飫肥に帰還。飫肥藩が成立すると伊東祐兵から家老職をたまわりますがそれを辞退し、酒谷城主として飫肥藩の国境の薩摩藩島津氏に睨みを聞かせました。
飫肥の四半的はこの山田匡得が酒谷城で国境防衛策と娯楽を兼ねておこなったのが起源だそうです。
墓は今でも薩摩藩の国境に向かって建っています。