ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

伊東義賢の供養塔

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油津のまなびピアの裏にある霧島神社の山裾の山林に伊東家の殿様の墓があります。この墓は最近になって発見されたそう。

伊東義賢の墓です。

伊東義賢(よしかた)は16代 伊東義祐の孫、父は17代 伊東義益。父の義益は若くして亡くなり、義賢は幼少のまま伊東家の家督を継ぐことになり、義祐が後見として実権を握りました。

そんな折、伊東家が島津家に大敗して日向国を追われ(伊東崩れ)、豊後の大友宗麟を頼ります。そのときに義賢はキリシタンの洗礼を受けました。

1587年、伊東義祐の三男、伊東祐兵(のちの飫肥藩初代藩主)が豊臣秀吉九州征伐に従った功績により、飫肥城主に返り咲きました。
そして、義賢は飫肥に戻ってきましたが

1593年、分禄の役で伊東祐兵とともに伊東軍の一員として朝鮮へ出陣。義賢はそこで病にかかり帰国の船のなかで急死。途中の壱岐島の長徳寺に埋葬されました。

ただ、この義賢の死は、伊東祐兵の家臣たちによる毒殺だといわれています。
伊東義賢は伊東祐兵の兄の子、伊東家の家臣には嫡流の義賢が跡を継ぐべきという動きがあり、これを封じるために暗殺したといわれています。

 

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墓石にある「罷山全休」は義賢の戒名。これが発見の手がかりだそう。
義賢の墓のある山へは、住宅の庭を通るので、民家の人に声をかけてからの参拝になります。

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伊東義賢の墓は、他に壱岐の長徳寺と飫肥の長持寺跡の伊東墓地にあります。