ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

河崎権助の墓(宮崎市清武町)

宮崎市清武町加納にある河崎権助祐為(川崎権助)の墓を参拝しました。河崎権助は伊東家再興に貢献した河崎駿河守祐長の嫡男で、曽井城主になった武将です。1587年豊臣秀吉九州征伐で伊東祐兵は飫肥城主に復帰。伊東家再興を果たしますが祐兵は伊東義祐の三男であり、もともと兄の伊東義益の遺児 伊東義賢が伊東氏の嫡流家督を継いだ経緯、才覚や学識があったため家臣の中には義賢を擁立する企てがありました。祐兵の重臣らは義賢とその弟祐勝の兄弟が存在する限り伊東氏は安泰でないと協議し、義賢と祐勝兄弟を毒殺することを決めます。義賢の妻は河崎権助の妹で義賢、祐勝兄弟と仲が良かったことから、実行役には河崎権助が選ばれました。

1593年の豊臣秀吉の朝鮮征伐において、伊東祐兵は伊東義賢、祐勝、河崎権助らとともに飫肥から朝鮮に出陣します。朝鮮において河崎権助は義賢、祐勝に毒を飲ませ、自らも怪しまれぬよう毒を飲みます。義賢、祐勝兄弟は病に侵され朝鮮から帰国する途上に病死しています。河崎権助は兄弟よりも1ヶ月早く朝鮮で亡くなったことから兄弟たちより多く毒を飲んだのではないかといわれています。伊東氏のお家騒動を未然に防ぐため自ら毒を飲んで犠牲になった河崎権助

そのため河崎権助の墓石は伊東氏血縁者や伊東氏存続に貢献した家臣にしか許されない伊東塔で建立されています。

河崎権助の墓石。

墓石には河崎権助が亡くなった文禄2年6月14日と刻まれています。

河崎権助の墓は加納ハイランド公園の一角にあります。

標柱。

説明板。