宮崎県宮崎市清武町加納加納甲にある清武城に行ってきました。清武城は伊東四十八城の1つで城主は長倉伴九郎、上別府宮内少輔でした。この2人の武将は1572年の木崎原の戦いで戦死しています。伊東氏が衰退すると一時島津方の伊集院久宣が入りますが1587年の九州征伐で再び伊東領になると伊東祐兵の重臣 稲津重政が城主となります。稲津重政は1600年の宮崎城の戦いでの同士討ちの責任を負わされ、飫肥の伊東軍に清武城を攻められ妻の雪江とともに自刃しています。その後清武城には伊東氏再興に貢献した河崎駿河守祐長が入りました。清武城は伊東氏中興の伊東祐堯が飫肥城攻めの拠点にしこの城で病没するなど伊東氏の歴史の中で重要な城でした。
清武城の縄張り図。(宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書より転載して加筆)
本丸以外の曲輪はほとんど畑地になっているため、どこまで原型をたもっているのかはわかりません。
東側から見た本丸切岸。
南側の入口から見た本丸方面。
本丸登り口。
本丸。清武城の丘陵の最高地点になります。
本丸にある清武城址の石碑。
本丸虎口。
本丸の下にある曲輪②。
曲輪③。奥は曲輪②の切岸。
曲輪④。
手前の曲輪⑤、その奥の曲輪⑥、さらに一番奥の曲輪⑦。
曲輪⑦から見た曲輪⑤、⑥方面。
曲輪⑦。
曲輪⑧から見た曲輪⑦の切岸。
手前の曲輪⑧、その奥の曲輪⑨。
曲輪⑩。
曲輪⑩からの眺望。清武市街が見えます。
宮崎道越しに見た清武城の丘陵。
説明板。
清武城本丸の案内板。
清武城の案内板。
清武城の位置。