宮崎県都城市野々美谷町にある野々美谷城に行ってきました。
野々美谷城は庄内十二外城の一つで、龍頭城(本丸)、諏訪城、平城、倉持城、石垣城、尾崎城、八幡城、西栫、取添などの10の曲輪からなる山城です。戦国時代には北郷氏、北原氏、伊東氏の間で野々美谷城をめぐる争奪戦が繰り返され、1599年の庄内の乱では伊集院忠真の家臣 有田屋大炊左衛門、古垣大炊介忠時、古垣与兵衛忠興が野々美谷城を守りました。
野々美谷城の縄張り図。宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書より転載。現在残っているのは諏訪城、平城、八幡城、西栫。本丸にあたる龍頭城を初め、尾崎城、石垣城、倉持城は土取りにより丘陵自体が消滅しています。
諏訪城の曲輪下にある野々美谷城の案内板。
道路左側の手前から奥までつづく細長い山は諏訪城。道路右側の平地には本来なら龍頭城の丘陵がありました。道路は諏訪城の曲輪沿いを通っており、諏訪城と龍頭城の間の堀底道を利用したものです。
諏訪城の登口。
諏訪城。諏訪城の曲輪には諏訪神社が鎮座していて野々美谷城で唯一整備された曲輪になります。かなりの広さです。
諏訪神社。
諏訪城と平城の間の堀切。草に覆われていますが大規模で野々美谷城の見所の一つ。
諏訪城と平城の間の堀切。
平城。竹藪になっていますが野々美谷城の中で一番遺構の原型をとどめていて土塁があります。
平城の土塁。左は諏訪城との間の堀切。
平城の土塁から見下ろす諏訪城の間との堀切。
龍頭城、倉持城、石垣城、尾崎城の跡地は平地になっている。奥に見える丘陵は八幡城の曲輪。
八幡城。
八幡城の曲輪も遺構が残るといわれていますが土取りでだいぶ削られていました。
西栫の丘陵。
西栫の曲輪には会社がありソーラーパネルが設置されていました。
西栫から見た諏訪城、龍頭城跡。
西栫(左)と八幡城(右)の間の堀底道。
西栫の西側の堀切跡。
西栫の向かいにある取添の空堀。
野々美谷城の北側は谷のようになっていて、城の外側を川が流れています。平城と諏訪城方面を見たところ。
都城島津邸で展示していた野々美谷城の古絵図。これを見るとさらに野々美谷城の曲輪配置をイメージしやすくなります😊