宮崎県都城市上水流町にある志和池城に行ってきました。
志和池城は庄内十二外城の一つで、1599年の庄内の乱では伊集院忠真の家臣 伊集院掃部介春成、園木治右衛門が城将となりました。
志和池城の縄張り図。宮崎県中近世城館跡緊急調査報告書より転載。志和池城は本丸、二の丸、小城、新城、西栫の5つの曲輪で構成された山城です。現在残っているのは本丸と新城のみ。
本丸の登口と荒神。
荒神。
志和池城の本丸。本丸には忠霊塔、志和池城霊苑があります。
本丸。
本丸からの景色。
本丸にある志和池城の案内板。
志和池城霊苑の碑。
二の丸跡。二の丸の丘陵は跡形もなく整地されていました。奥に見える丘陵が本丸。
国道221号沿いにある志和池城の標柱。
本丸から国道221号を挟んだ向かいにある小城跡。国道建設により丘陵は消滅しています。
新城の標柱。
新城の丘陵。
新城の東側にある空堀跡。
都城龍峯寺の末寺 雲林寺跡。
志和池の地名の由来である蓮池。1474年 志和池城主 島津播磨守忠尭がこの池に因んで志和池という地名をつけた説と雲林寺の僧が「志の和することこの池のごとくあれ」と言ったことによる説があるそう。
志和池城周辺は庄内の乱に関する史跡が結構残っているので散策してきました。
志和池城の西側の台地上には志和池城を攻めた島津氏諸将の陣跡があります。このような陣城遺構が広範囲に残っているのは珍しいとのこと。
志和池城の西側にある北郷氏の陣跡。北郷氏は旧領の都城を取り戻すため戦意が高かったといわれ、北郷家久は志和池城の西栫を攻め落とし、西栫には本丸を見下ろす島津方の勢樓が築かれたといいます。
志和池城の南にある鑓合場。庄内の乱で、志和池城の武将 園木治右衛門が北郷方の敷根仲兵衛と槍を合わせて討ち死にした場所になります。