宮崎県児湯郡木城町石河内にある石城。伊東四十八城の1つで城主は長友源三郎でした。新納石城とも呼ばれています。
石城の位置。城の三方を小丸川がぐるりと囲むように流れ、唯一陸続きの西側尾根を堀切で遮断する難攻不落の城です。
石城の説明板より石城の想像図。
石城の対岸にある石河内展望台からは、三方を川に囲まれた石城の全景を見ることができます。
西側尾根を分断する堀切跡。
堀切跡を反対側から。
石城の跡地は「新しき村」の敷地となり入口には石碑があります。
石城の本丸へ続く道。
左には池の跡がある。
石城の本丸。
石城の本丸。
武者小路実篤記念館があります。
下の曲輪への道。
本丸の一段下にある曲輪。
西側尾根には溝のようなのが続く。
西側尾根にある石垣。遺構かはわかりません。
北側から見た石城と小丸川。
石河内展望台にある石城の説明板。
石城といえば1578年 石城合戦である。伊東氏が島津氏に日向国を追われ豊後に落ち延びたとき、伊東氏の残党は、この石城に立て籠もり、伊東氏の領地奪還を目指しました。長倉祐政、山田匡得といった勇猛な武将を含む600の伊東軍が守る石城を、島津氏は7000の軍勢で攻めました。
1度目の合戦では城は落ちず、伊東軍の勝利に終わりますが、2度目の合戦では島津軍が1万の軍勢で攻めたため、伊東軍は城を明け渡し撤退。島津軍の勝利に終わっています。
石城に籠もって島津軍相手に奮闘した山田匡得は伊東氏が飫肥藩主として再興すると酒谷城主を任されました。