宮崎県東諸県郡綾町にある綾城に行ってきました。綾城は室町時代に足利尊氏の家臣である細川小四郎義門がこの地に下向し、その子義遠が地頭となり綾城を築城し綾氏を名乗ったのが始まりです。綾氏は8代続き伊東氏の家臣となってこの城を去ると、長倉若狭守が城主となります。長倉若狭守は垂水但馬守とともに綾の乱で主君の伊東氏に滅ぼされ、その後は稲津越前守、佐土原遠江守と城主は変わります。伊東氏の時代に綾城は伊東四十八城の1つとして重要な支城でした。伊東義祐が豊後落ちをする際は綾城の佐土原遠江守を頼り、落ち延びる算段を決めたといわれています。綾の刀鍛冶で知られる田中国広も義祐によりこの綾城に召し出され伊東マンショの侍臣として仕えます。田中国広は豊後落ちで幼い伊東マンショをおんぶして米良山中を逃げのびました。
綾城の縄張り。綾城天守の中にあるジオラマより。綾城は舌状台地の先端を利用して築かれた山城で曲輪と曲輪の間は深い堀切で分断しています。
綾城の主郭にある中世の復元天守。
主郭の塀。
主郭入口と冠木門。
復元天守より見た主郭と曲輪2の間の堀切。堀切には橋がかかる。
主郭と曲輪2の間の堀切。
主郭と曲輪2の間の堀切にかかる橋。
曲輪2入口の門。左右には曲輪2と曲輪3の間の堀切があります。
曲輪2と曲輪3の間の堀切(北側)。
曲輪2と曲輪3の間の堀切(南側)。藪化しています。
堀切に面した曲輪2の土塁。
堀切に面した曲輪2の土塁。
曲輪3にある田中国広の像。
曲輪3入口にある龍尾城跡西入口の石碑。
曲輪3と曲輪4の間の堀切。現在は道路が通っています。
曲輪3と曲輪4の間の堀切にかかる橋。
曲輪4。綾城の駐車場になっています。
綾城の説明碑。
綾城天守。
綾城天守からの景色。
豊後落ちを再現した人形。
説明。
伊東義祐。
綾城主 佐土原遠江守。
田中国広。
綾城の位置。