宮崎市高岡町にある穆佐城に行ってきました。穆佐城はシラスの丘陵を利用した山城で、たびたび日向国の戦乱の舞台に登場します。南北朝時代には足利尊氏の命を受けた畠山直顕が入り北朝方の拠点とすると、戦国時代には島津氏と伊東氏の争奪戦のすえ、島津久豊(島津氏8代)が城主となり、島津忠国(島津氏9代)もこの城で産まれています。やがて伊東祐堯が穆佐城を攻略し伊東氏の支配下になると、伊東四十八城の1つとなり城主は落合兵部少輔でした。伊東氏没落後は再び島津氏の領地となっています。このように城主は目まぐるしく変わり、重要な役目をした城なのがわかります。現在穆佐城は国指定史跡ということもありきれいに整備されています😆
穆佐城の縄張り図。3つの大きな堀切により4つの城郭群(A〜D地区)で構成されています。A〜D地区すべて散策。そしたら2時間超えの城攻めになりました。そんだけ広い山城だということです!
穆佐城の標柱と登口。
東側から見たA地区の丘陵の部分。
A地区の曲輪3と曲輪4の間の堀切。
曲輪2〜3と曲輪4の間の小規模な堀。
曲輪4。
曲輪4から見た曲輪3と曲輪2。
曲輪3から見た曲輪2。
曲輪1と曲輪2の間の小規模な堀。
曲輪1。
曲輪1の見晴らし。東側の眺望が開けています。ここからは同じ伊東四十八城の倉岡城、宮崎城が見えるそうです。
曲輪1から見下ろした曲輪28。木が伐採されているので曲輪の形がくっきりわかりやすい。
曲輪28から見た曲輪1の切岸。かなり迫力ありますね。
曲輪1から大堀切越しに見たB地区の主郭方面。
B地区の坪之城と呼ばれる曲輪。島津忠国が産まれた場所といい誕生杉があります。
B地区とA地区を分ける大堀切。
B地区とA地区の間の大堀切。
B地区の主郭への登城道。
主郭の入口。
主郭。二段になっています。
主郭。
主郭の土塁。
主郭背後の大堀切。C地区とB地区を分けています。
大堀切から見た主郭の切岸。
大堀切から見たC地区の切岸。
C地区の曲輪26。
C地区の曲輪25から見た曲輪22の段差。
C地区の曲輪22。
C地区の曲輪24。
C地区の曲輪22。
C地区とD地区を分ける大堀切。
D地区の曲輪27。
D地区の曲輪27の先にある堀切。
説明板。
穆佐城の位置。
宮崎市で遺構が完全に残り、キレイに整備されている素晴らしい山城でした。