ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

城之内

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日南市南郷町谷之口には谷之口城の他に「城之内」という謎にみちた城跡があります。上写真は南東の松尾神社から見た城之内の台地です。かなり広い台地で、この台地には城之内という字名が残っています。

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日南市教育委員会の歴史まちあるきマップの中世城郭に掲載されています。

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城之内の全体図。城郭遺構らしきものがあった場所に○つけました。F地点の東側は大規模な谷状の地形、大空堀なのか自然地形なのかは不明。

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城之内の登口。ここから城之内の台地まで上がれます。

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A地点の空堀(左)と帯曲輪(右)

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A地点の斜面にある帯曲輪。

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A地点の空堀

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城之内のB地点あたり。城之内の台地は畑地になっています。

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城之内のC地点あたり。城之内の台地の中央です。

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D地点の空堀

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E地点の土橋。土橋の両脇は空堀状の地形。

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E地点の土橋横の空堀

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F地点の土橋。

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G地点のあたり。

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H地点のあたり。

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城之内の東側。

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城之内と谷之口城。

 

城之内は谷之口城よりも大きい城跡ですが、歴史的な詳細はまったくわかっていません。

串間に野辺氏が拠った櫛間城という大きな城郭があり、野辺氏は南郷にも城を築きそれがどこの城を指すのか不明らしいので南北朝時代以前の城?それとも谷之口城に関係する城なのか、それとも水軍の城か、いろいろ妄想が膨らみますね🧐

谷之口城

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日南市南郷町谷之口にある谷之口城に登りました。

谷之口城は南郷包装の裏山にあり、最高所の主郭で標高35mと南郷の中でも低い山城です。上写真は国道から見た谷之口城。

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谷之口城の入口。南郷包装の駐車場の裏から山に入ります😁

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谷之口城の縄張り図。日南市教育委員会の歴史まちあるきマップに縄張り図がないお城のため、歩いた結果をもとに自作で描きました。

谷之口城はシラス台地を深い空堀や堀切で区画して独立した曲輪を造り出す南九州特有のお城の縄張りになっていました。特に主郭と二郭の間に曲輪3があることで主郭に入るルートは挟撃を受ける構造で厳重に造られています。f:id:mai9mami:20200419143758j:plain

谷之口城の山の中に入ると藪で荒れています。入るとすぐにある曲輪六の切岸を右手に見ながら城内に入っていきます。

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二郭(左)と曲輪六(右)の間にある堀切4。

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二郭の切岸。シラス台地が剥き出しで垂直に削られていて、これでは敵は登れません。

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曲輪3と二郭を分断する堀切1。立派なVの字で圧巻でした😳

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堀切1を進むと空堀に出ます。右のシラス台地の切岸が主郭で、左が二郭。大規模な空堀で大空堀という表現のほうがしっくりきます。

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二郭の入口手前にある帯曲輪。

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谷之口城の二郭。

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二郭の南側をめぐる土塁。

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主郭の切岸。

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主郭の入口。主郭へは曲輪3と主郭の間を堀切のように削られた場所から入る構造になっています。

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主郭入口の右側にある土塁。

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主郭入口右側にある土塁と曲輪三の間にある堀切2。この先は崖になっており大空堀が広がります。

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谷之口城の主郭。主郭内部は草が生い茂っています。中はすごく広いです。

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曲輪五と主郭を分断する堀切3。右が主郭、左が曲輪五。

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曲輪四の切岸(左)と曲輪3(右)の間の堀底道。曲輪四の切岸がまた垂直で迫力あります!

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曲輪四の切岸。

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谷之口城の位置。スーパー地形で見ると主郭と二郭の2つの大きな曲輪がくっきりわかります。

 

全体的に山の中は藪でしたが城の全容を把握できてよかったです😊

深い空堀や堀切、高い切岸などシラス台地を削って造られた縄張りが杉林の中に完全に残っており、志布志城、安楽城(志布志市)、酒谷城を彷彿とさせるすごい山城でした。

谷之口城は城主や築城年などの歴史的な詳細がわかっていませんが、この土木量の多い縄張りを見ると戦国時代に使用された城で島津氏の城郭のように見えます。

日南で無名なのがもったいない城跡でした😊

水ノ尾砦(貝殻城)

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日南市大字宮浦にある水ノ尾砦に登ってきました。

水ノ尾砦は別名「貝殻城」といい、1545年に伊東義祐が飫肥城攻めの際に築いた砦です。伊東義祐は島津方の烏帽子嶺砦を攻め落とした勢いで鵜戸街道の尾根筋が通る水ノ尾峠に砦を築き陣を置きました。

上写真奥の一番高い山が水ノ尾砦になります。(小吹毛井の海岸線から撮影)

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水ノ尾砦は鵜戸山地の中央にある標高482mの山にあり、海岸沿いの小吹毛井の林道から片道2時間の山登りです。まさに秘境。日南の山城で行くことがもっとも難しいお城なのです。伊東義祐の飫肥城攻めルートはこの水ノ尾砦から尾根を南下し鳥居峠に至り東弁分へ下りて、東の渡しを渡り飫肥に入ったと思われます。

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水ノ尾砦(貝殻城)の縄張り図。日南市教育委員会の歴史まちあるきマップに縄張り図の記載がないお城のため、歩いた結果をもとに自作で縄張り図を描きました😊 尾根に数々の遺構があります。

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水ノ尾砦の山に行くには小吹毛井の林道をずっと道なりに登っていきます。途中 山の中で2つに道が分かれるので右折し道なりに進むと上の写真の場所に出ます。これが水ノ尾砦に向かう尾根になります。木が伐採されているので尾根までは簡単に上がれます。尾根に着いたら右(北方向)に進みます。

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水ノ尾砦に向かう尾根。ここからずっと尾根を北側に進みます。尾根には丘陵が何ヵ所かあり随所に水ノ尾砦の遺構が残ります。

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尾根を進むと最初に見える丘陵。ここを越えます。

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さらに続く尾根。この先に傾斜が急な岩場があります。

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この岩場の傾斜が急で危険なので慎重に登ります。

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岩場を登ると石積みらしき遺構が見られます。ここを下ると堀切1に出ます。

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堀切1。

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堀切1には石積みらしき遺構がたくさん見られます。

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堀切1からみた北側の尾根道。水ノ尾砦の登城道です。岩場(石積み?)がここにも随所にあります。ここを登ると堀切2に出ます。

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堀切2。

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堀切2を北側から見下ろす。

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堀切2を越えた先にある岩場。巨石が多く砦ぽいです。この先に三角点のある丘陵が2つあるので、それを越えると尾根は下りになり二重堀切に出ます!☺️

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二重堀切。

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二重堀切の南側の堀切。

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二重堀切の断面。

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二重堀切の北側。石塁が残っています。

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尾根の北側から見下ろした二重堀切。

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二重堀切を越えた先にある岩場。ここを越えるといよいよ水ノ尾砦の中心部に入ります。最後の防壁みたいなものでしょうか。かなり傾斜が急な岩場を登ります。

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岩場を越えるとひらけています。左側の道が尾根道で、水ノ尾砦の主郭の丘陵は右側の木々の生い茂るなかにあります。

木々が生い茂った曲輪も広く、伊東軍の兵が駐屯した場所と考えられます。f:id:mai9mami:20200411110627j:plain

木々の中にある縄張り図3の土塁。

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縄張り図3の土塁と主郭(写真右側の丘陵)の間にある堀切3。

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主郭の丘陵の東側にまわると帯曲輪になっており、主郭まで進める道になっていますが、藪が生い茂ります。

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山頂の水ノ尾砦の主郭。

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主郭内部。

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主郭東側の石塁らしきもの。

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水ノ尾砦の中心部西側をとりまく尾根道。この尾根道を進むと主郭北側の尾根に行くことができます。

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主郭の北側にある堀切4。

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堀切4北側にある石塁。

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さらに北側に進むと土塁が3つあり二重堀になっています。二重堀の1つ目の空堀。写真だと少し浅くてわかりづらい。

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二重堀の2つ目(北側)の空堀

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二重堀の先にいくと北側に続く尾根があり竪堀が2つあります。写真中央に見える窪みは竪堀2。

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竪堀1。

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竪堀2。

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水ノ尾砦の位置。

 

水ノ尾砦の尾根筋には複数の堀切、石塁が至るところにあります。特に主郭南側の尾根にある二重堀切は素晴らしい🤩

今回2回目の訪問ですが前回歩かなかった主郭北側の尾根にも堀切、二重堀、竪堀などの連続した城郭遺構を発見することができました。

それと水ノ尾砦は山奥の尾根伝いにある山城なので舐めてかかると大変な目にあいます😣 1回目に来たときに帰り道がわからなくなり遭難しかけました。城跡までは山登りに時間がかかるので、ちゃんとした登山計画を持って挑みましょう!

なかなか秘境な水ノ尾砦(貝殻城)、砦の範囲も広くいろいろな探求心が沸いてくる山城でした(о´∀`о)

山田匡得の墓

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日南市酒谷にある山田匡得(きょうとく)の墓を参拝しました。

山田匡得は伊東氏の家臣で島津氏との合戦において前線で活躍し、伊東軍の猛将として島津から恐れられた武将です🤩

山田宗昌の名でも知られます。

彼が最後に城主をつとめた酒谷城の麓に墓は祀られ匡得神社となっています。匡得神社の背後の山が酒谷城です。

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山田匡得の墓石には戒名である「学翁匡徳」、左に山田次郎三と刻まれています。

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匡得神社の上にある家紋。

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国道から匡得神社に向かう途中にある山田匡得記念碑

 

山田匡得は山田次郎三郎といい17歳の初陣で、島津方の豪の者 亀沢豊前守を組伏せて首を取ります。

1568年 伊東義祐が飫肥城を攻略する契機となった小越合戦(吉野方)では、飫肥城の島津方の援軍としてやってきた、都城の勝岡城主 和田民部少輔を討ち取ります。

1577年 木崎原合戦で島津に大敗し伊東義祐、祐兵親子が島津に追われ日向を離れたあとも、伊東氏の領地奪回のため、他の伊東氏残党とともに、新納石城に籠りますが、大友宗麟が島津に耳川の戦いで敗れたため、豊後に退き、大友の家臣佐伯氏のもとで軍師として活動し島津の戦いでまた活躍します。

この豊後にいたときに大江匡房の兵法を全部さとり得たと称し名を山田土佐入道匡得と号します。

1587年 伊東祐兵が飫肥城主に復帰すると、山田匡得は佐伯氏のもとを去り、飫肥に帰還。飫肥藩が成立すると伊東祐兵から家老職をたまわりますがそれを辞退し、酒谷城主として飫肥藩の国境の薩摩藩島津氏に睨みを聞かせました。

飫肥四半的はこの山田匡得が酒谷城で国境防衛策と娯楽を兼ねておこなったのが起源だそうです。

墓は今でも薩摩藩の国境に向かって建っています。