ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

伊東義祐と稲荷山(宮崎市)

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宮崎市月見ケ丘にある稲荷山公園

『今日ぞ見る  稲荷の山の紅葉の  青かりし色は松の村立』

1561年秋、宮崎から飫肥城攻めに向かう道中、赤江の町から稲荷山を見た伊東義祐が詠んだ詩です。伊東義祐が西都の都於郡城から鵜戸街道を南下し赤江に入った時に目に入ったのが紅葉が色づいた稲荷山。

稲荷山公園には伊東義祐の詠んだ詩の石碑があります。

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稲荷山公園にある赤江稲荷神社。稲荷山の名前の由来になっています。

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稲荷山公園からの景色。宮崎空港が見えます。

伊東義祐の飫肥紀行に登場する稲荷山。

宮崎市内には伊東義祐にまつわる史跡が結構残っています。

飫肥城(日南市飫肥)

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日南市飫肥にある飫肥城飫肥藩主伊東家5万1千石の居城です。戦国時代にはこの飫肥城をめぐり島津氏と伊東氏の争奪戦が繰り広げられました。

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岡本氏が作成した飫肥城の縄張り図を転載。飫肥城はシラス台地を深い空堀で区画して独立した丘陵(曲輪)を造り出す南九州特有のお城の縄張りです。飫肥城には大手口、十文字口、常真口、谷ノ口、永吉口の5つの入口があり、大手口、十文字口、常真口は三曲輪と城外の境界となる崖に設けられていました。

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飫肥城の大手門。門前の両脇は三曲輪とニ曲輪を分断する空堀が巡らされています。大手門の中からニ曲輪になります。

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大手門横の三曲輪とニ曲輪を分断する空堀。右が武家屋敷などがある三曲輪。

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ニ曲輪と三曲輪を分断する空堀は折れがあり長く続いています。

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大手門の枡形。

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大手門付近の土塀を支える控柱。

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大手門西側にある土塁。

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犬馬場を巡る土塁。

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犬馬場を巡る土塁。大手門の東側から空堀沿いに続いている。

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飫肥城の本丸南虎口。

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飫肥城の本丸櫓台石垣。現在櫓台の石垣の上には伊東祐永のときに使われた飫肥城の鐘が移築されている。

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松尾丸と本丸の間の登城道。

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飫肥城の本丸東虎口。

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飫肥城の本丸跡。日向灘震源とする大地震が1662年、1680年、1684年と3度続き飫肥城は石垣が崩れたり、本丸御殿のあった旧本丸に地割れが入るなど甚大な被害が出ました。1691年飫肥藩5代藩主 伊東祐実が飫肥城の大改修工事を実施し、中ノ丸と今城の丘陵を崩して本丸を移転させています。現在残る本丸の石垣はその時の改修によるものです。本丸御殿が移された新しい本丸は現在飫肥小学校になっており遺構はありません。

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松尾丸の石垣。登城道から見える東側のみ石垣が築かれています。

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松尾丸。シラス台地の独立丘陵を感じることができる曲輪。

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松尾丸の切岸。飫肥城の大改修のときに本丸を広げるため中ノ丸とともに松尾丸の丘陵も削られています。

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松尾丸に復元された本丸御殿。中は伊東氏の歴史がわかる資料が展示されています。

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松尾丸を巡る土塁。分厚くて高まりますね。

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松尾丸と旧本丸の間にある水ノ手。

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旧本丸の切岸。

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旧本丸の石垣。

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旧本丸の東虎口。

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旧本丸の東虎口横の石垣。

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飫肥城の旧本丸。初期飫肥城の本丸御殿があった場所。

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旧本丸に残る土塀の控柱。

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旧本丸の北虎口。

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旧本丸と中ノ丸残地の間の堀切。

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旧本丸北虎口から見る中ノ城と北ノ城。中ノ城と北ノ城は現在グランドになっていて遺構はありません。

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飫肥小学校に残る今城の城塁。飫肥小学校の校門前は二重木戸があり搦手口の役割をしていました。

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旧本丸と西ノ丸の間の堀切。

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松ノ丸と西ノ丸の間の堀切。右側が西ノ丸。

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西ノ丸の虎口から見る永吉口方面。道路を挟んだ右側が松ノ丸。

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西ノ丸。堀川運河を作った伊東祐実が隠居した場所。最近まで日南市の貯水槽があり立ち入り禁止だったエリア。

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西ノ丸の北端に残る土塁。

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西ノ丸の土塁。

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西ノ丸からの景色。西ノ丸は酒谷川に面する崖の上にあり絶景。飫肥城の中で眺めがいい場所ですね。

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西ノ丸から見た松ノ丸。昔は丘陵でしたが削られて低くなっていて北側は住宅地になっています。

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八幡城。田ノ上八幡宮が鎮座しています。この鳥居の前は空堀となっており東側の谷に下がっています。現在空堀は埋められ道路になり地形が残ってます。

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八幡城の曲輪の切岸。かなり高さがあり傾斜が急です。

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八幡城の南側にある武家屋敷に見られる石垣。

 

ここから飫肥城の入口である5口を紹介します。

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大手口。

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大手口には折れのある石垣が残ってます。

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十文字口。

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十文字口の三曲輪と城外の境界の崖。

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常真口。

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常真口の三曲輪と城外の境界の崖。

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谷ノ口(やのくち)。石垣が草で覆われている。石垣の前には水堀を兼ねた池がありましたが、現在はありません。谷ノ口は普段人が入らない場所なので、ヘビに注意しながら藪コキしました。あとで聞いたとこによると、この辺りはマムシの巣といわれ地元の人が近寄らない場所でした😱

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谷ノ口の角隅の石垣。

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永吉口。

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三曲輪と城外の境界の崖。飫肥城の三曲輪と城外の境界は崖になっているので、この崖のラインを見ながら飫肥を散策すると飫肥城の大きさや概要がわかるかと思います。

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天然の外堀である酒谷川を挟んで南側から見た飫肥城と城下。

 

1485年に新納忠続が守る飫肥城を攻めた伊東祐国が戦死し、祐国の孫である伊東義祐は祖父の無念を晴らすため、島津豊州家の飫肥城を28年間攻め、1568年島津忠親は伊東義祐に飫肥城を明け渡します。念願の飫肥城を攻略した伊東義祐は三男の伊東祐兵を飫肥城主とし、飫肥城は伊東48城の一つになりました。

ところが1572年に伊東義祐が木崎原の戦いで島津氏に大敗すると家臣の寝返りが相次ぎ、1577年伊東義祐は豊後の大友宗麟を頼り日向国から亡命、飫肥城の伊東祐兵も飫肥城を捨てて父の義祐に合流するため佐土原城へ向かいました。

飫肥城は島津領になりましたが、1587年 豊臣秀吉九州征伐に従った伊東祐兵が飫肥城主に復帰し伊東家を再興。幕末まで伊東家が飫肥藩主として飫肥を治めました。

伊東家の執念が生んだドラマチックなストーリーですね🥰

 

◆戦国時代の歴代の飫肥城

島津季久(島津豊州家初代)

新納忠続(島津本家家臣)

島津忠廉(島津豊州家2代)

島津忠朝(島津豊州家3代)

島津忠広(島津豊州家4代)

島津忠親(島津豊州家5代)

伊東祐兵

上原尚近(島津本家家臣)

伊東祐兵

伊東祐実と油津堀川運河

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日南市楠原の報恩寺跡伊東墓地にある飫肥藩5代藩主 伊東祐実の墓。

飫肥藩5代藩主 伊東祐実は薩摩藩との境界争いである牛の峠論山の勝訴、油津堀川運河の開削、日向灘沖大地震の被害を受けた飫肥城の大改修など多くの功績を残しています。洞林(どうりん)公とも呼ばれています。

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伊東祐実の命により1684年から2年3ヶ月をかけ1686年に完成した堀川運河。

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堀川運河の始点にある石堰堤。

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日南郵便局先の堀川運河近くに建つ伊東洞林公の碑。

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伊東祐実が隠居した飫肥城の西ノ丸。

 

伊東祐国の供養塔

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飫肥城の北にある東楽寺跡近くには1485年の飫肥城攻めで戦死した伊東祐国(すけくに)の供養塔があります。

伊東祐国は西都の都於郡城主で伊東氏12代当主。

飫肥城主 新納忠続と櫛間城主 伊作久逸が島津家臣同士でありながら仲間割れ。

伊作久逸は伊東氏に援軍を求め新納忠続の籠る飫肥城を攻めます。対する飫肥城の新納忠続は島津本家に援軍を依頼します。

伊東祐国は飫肥の楠原に本陣を置きますが島津軍との乱戦のさなか伊東祐国は楠原で戦死。伊東軍は撤退。島津軍が勝利し新納忠続は飫肥城を守りきります。

伊東祐国の戦死により、伊東家にとって飫肥城の攻略は長年の宿願となり

のちに祐国の孫の伊東義祐は祖父の因縁の地である飫肥城を28年間、執拗に攻め続け 1568年 飫肥城を島津から奪い取り 祖父の無念を晴らすのです。

その後 島津に奪い返されますが、1587年 伊東義祐の三男、伊東祐兵が飫肥城主に返り咲き、初代飫肥藩主となります。

1588年 伊東祐兵は祐国の亡くなった楠原に伊東家の菩提寺 報恩寺を開き、伊東家の累代の墓所とします。

伊東祐国の墓は、西都市光照寺にあります。