ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

伍社神社

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日南市南郷町にある伍社神社。1650年 飫肥藩3代藩主 伊東祐久の外浦干拓事業の際にシヲという女性を人柱として埋めたと伝わります。

伊東家はもともと初代藩主 伊東祐兵のときに石高を多くみせていたため財政は苦しく、伊東祐久は税収を増やすために海を埋めて新田開発を行いました。 

地元の松田理右衛門により工事は進められましたが、堤防は風波により度々破壊されたことから、潮の満ち引きを司る神 塩土老翁シオツチノオジ)を合祀しシヲという女性を伍社神社の森に人柱として鎮め祀り松田堤がつくられました。

その後、シヲという女性の霊を慰め親しみを込めて、伍社神社は潮屋権現と呼ばれるようになりました。

外浦湾が埋められる前は、伍社神社のある山も海にポツンと浮かぶ小島だったそう。

 

松山城

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鹿児島県志布志市松山町新橋にある松山城に行ってきました。

松山城は本丸、二ノ丸、五兵衛城、八幡城の4つの区画に分かれていたと言われていますが、現存しているのは二ノ丸のみ。

島津豊州家と肝付氏が大隅の覇権を巡る争いをしている中で、飫肥城主 島津忠親は松山城主に一族の平山忠智を入れますが、1559年 肝付兼続が松山城を攻め平山忠智と息子の平山久武、平山久次を討ち取り、松山城は肝付氏の城となります。肝付氏没落後は島津本家の直轄地となり江戸時代には薩摩藩の松山麓松山城の麓に置かれました。

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松山城の二ノ丸の切岸。

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二ノ丸の東側の空堀

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二ノ丸東側の空堀。V字がキレイですね。

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二ノ丸は現在2つにわかれています。護国神社が鎮座する曲輪は2段になっています。

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護国神社から見る一段下の曲輪。

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もうひとつの二ノ丸。神州不滅の碑と城郭を模した展望所が設けられています。

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二ノ丸に建つ展望所。

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松山城二ノ丸から見る景色。松山町の市街地が望めます。写真中央の赤いJAの建物は松山麓の御仮屋があった場所です。

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松山城の本丸跡と言われる体育館。

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松山城二ノ丸にある六地蔵

 

戦国時代に数々の戦乱を経験した松山城。松山町では現在この松山城を活かしたやっちく松山藩 秋の陣まつりが毎年秋に行われています。

伊東平右衛門の墓

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日南市南郷町贄波の海岸近くに伊東平右衛門祐続の墓があります。

伊東平右衛門は飫肥城主 伊東祐兵の家臣でしたが、長倉甚兵衛、川崎又右衛門らとともに、伊東義賢(祐兵の兄の子)こそ伊東家の嫡流であり、飫肥の領主は祐兵ではなく義賢がふさわしいと思う一派でした。

伊東の家臣にはこのように義賢を当主に立てる動きがあったため、伊東祐兵により何度か粛清されています。

長倉甚兵衛、川崎又右衛門も切腹を命じられました。伊東平右衛門は何の咎めもありませんでした。

豊臣秀吉朝鮮出兵を行った際、飫肥城主 伊東祐兵も秀吉から出陣命令を受け、伊東軍は500名の兵で飫肥から朝鮮へ出陣。そのなかには伊東平右衛門も従軍していました。

1598年 豊臣秀吉の死により朝鮮征伐が終わり、伊東軍も朝鮮から引き上げます。朝鮮から船で贄波海岸に着いた伊東平右衛門は下船のとき、贄波海岸に待ち伏せていた飫肥の家臣により謀殺されてしまいます。

伊東祐兵による暗殺だと思われます。祐兵は朝鮮で伊東義賢、祐勝兄弟にも毒を飲ませ暗殺。

飫肥藩を磐石にするための伊東家の粛清劇🙄

贄波で非業の死を遂げた伊東平右衛門の墓は、贄波の人たちに祀られ、現在地元では合格・戦勝の神様として参拝が絶えないそうです。

外浦砲台跡

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日南市南郷町贄波にある外浦砲台跡。

外浦砲台は1863年 飫肥藩伊東祐相が外国船の脅威に備えるため沿岸の警固として築いた台場です。3つの砲台が設置されました。

贄波海岸にあり贄波バス停にある土塁が外浦砲台の跡です。土塁の上にある木には南郷のジャカランダがキレイに咲いていました🥰

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外浦砲台の範囲図。石垣が2ヶ所に残っています。砲台跡の一部には家が建っており遺構が消滅しています。住民の方に砲台について聞いたところ、元の家の場所は贄波の砂浜のテトラポット付近にあり、台風被害により現在の台場の位置に建て直したそうです。そのときの台風により残っていた砲台の台座も流されてしまったとのこと。

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外浦砲台の石垣。石垣Bあたり。資料によると砲台跡の石垣の延長は99.68メートルとある。ここの石垣が一番きれいに残されています。

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石垣Bは長く続く。

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石垣Bの東端。

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石垣Bの裏側(海岸側)

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外浦砲台の石垣Aがある部分の土塁。

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外浦砲台の石垣。石垣Aの部分。家と土塁の境界にあります。

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土塁の上に祀られている地蔵さま。

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海岸側から見た土塁。

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外浦砲台跡の海岸側。左にある家も台場があった場所です。海岸の護岸工事の際に遺構が破壊されています。

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外浦砲台から見る贄波海岸。キレイな海でした(о´∀`о)

城戸元

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日南市大字平野にある城戸元(隈谷方面から撮影)

隈谷と油津を隔てる標高214.8mの山に「城戸元(きどもと)」という城跡があります。この城戸元がある山は日南市の吾田、油津、隈谷のどこからでも見える高い山。宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書や日南市教育委員会の歴史まちあるきマップに記載のある城跡です。

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日南市教育委員会の歴史まちあるきマップより。

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城戸元の登山ルート。隈谷から日南家具工芸社を目印にその先を進みます。城戸元と南の山を結ぶ尾根に出ると道が2つに分かれますので左に曲がり、城戸元の山の尾根脇の道をあがります。さらに2つに分かれる道があるので左に曲がります。

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左に曲がるとこの場所に出ます。ここをまっすぐではなく、右に曲がり山の中に入ります。ここから入ると城戸元の山頂まで段々の曲輪(帯曲輪群)が続きます。写真では見えませんが右の藪の中にちゃんと日南市地籍調査の杭があります。

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城戸元の城郭範囲図。歩いて城郭遺構らしきものがあった場所にアルファベットを振っています。山頂は広い曲輪になっていますが、倒木があったり藪で覆われていました。

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山の中に入ると帯曲輪群があらわれます。B地点のあたり。

下の方は畑地として使われていた形跡がありそのときに造成された可能性もあります。

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B地点の帯曲輪群を上から。

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さらに上に上がり帯曲輪群をみる。写真では伝わりにくいですが、4段になっています。

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A地点の下の方の帯曲輪。ここから山頂まで段々に曲輪が続きます。

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A地点の帯曲輪群の途中に石積らしきものあり。

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A地点の帯曲輪群。下から見ても段々になってるのがわかります!山頂はこの先です。

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城戸元の山頂。主郭と思われる曲輪です。三角点付近のD地点あたり。東側には土塁がみえます。

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D地点にある土塁。

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山頂C地点あたり。主郭南東隅に巨石が転がる。

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山頂F地点あたり。主郭北東隅にも巨石があります。

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山頂の東側に広がるE地点の帯曲輪。D地点の土塁を越えて一段したの曲輪からE地点の帯曲輪を見たところ。

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E地点の帯曲輪に降りて主郭方面に帯曲輪を見ると下の方に石積らしきものがあります。

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E地点の帯曲輪にある石積。

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G地点あたり。城戸元の山頂の北側尾根にある遺構らしきもの。

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H地点あたり。東側に土塁らしき高まりが見られます。

 

城戸元の山の字名に城館に関係する地名が残っていることから城跡と伝承されている城で、詳細がわからない謎の山城。

広い山頂に一段高い曲輪があり東側には土塁、そして石積に使われていたとおぼしき巨石が転がっていました。山頂のまわりにも石積らしきものが残っています。

城戸(きど)という言葉は城郭の出入口や町の要所に設けられた門を意味することから、城戸元の西側を通る猫坂(昔の南郷方面に向かう鵜戸街道)の人の出入りを監視するための山城だったのかもしれませんね。

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隈谷の景色。左の山が城戸元。右側の山と尾根でつながっていますが、隈谷から尾根を越える山道が通っていて油津の桜ヶ丘や上平野方面にいくことができます。昔の人が隈谷から油津に行くときに使っていた道ですが、いまは使う人もいなく山道は藪で荒れています。