ゆめのある子応援日記

日南市移住、れろのブログ

武将の墓

伊集院忠真の供養塔(宮崎県小林市野尻町)

小林市野尻町の国道268号沿いに島津氏に暗殺された悲劇の都城領主 伊集院忠真の供養塔があります。1599年に島津家家老だった父の伊集院忠棟が主君の島津忠恒に京の伏見屋敷で突然斬殺される事件が起きます。息子の伊集院忠真は居城の都城でその報せを聞くと…

伊東塚(小林市真方)

1572年の木崎原の戦いで戦死した伊東氏の武将を祀る伊東塚に行ってきました。 伊東加賀守祐安、伊東又二郎、伊東新次郎、稲津又三郎、上別府宮内少輔、米良筑後守重方、米良喜右介、米良式部少輔、野村四郎左衛門の供養塔9基が現存しています。 伊東塚。 伊…

菅無田古戦場(長崎県大村市)

長崎県大村市宮代町にある菅無田古戦場です。1577年佐賀の龍造寺隆信が大村領の萱瀬村に8000の軍勢で侵攻しました。守る大村勢は峰弾正、一瀬半右衛門などの萱瀬の武士わずか300ほど。この報を聞いた大村純忠は峰弾正、一瀬半右衛門らに今富城(大村市皆同町…

大渡野軍兵衛を祀る碑(長崎県大村市)

長崎県大村市武部町にある大きな自然石は大渡野軍兵衛を祀る碑といわれています。大渡野軍兵衛は西郷純堯(諫早城主)の家臣で諫早の本野を領した土豪です。諫早市下大渡野町にある尾和谷城の城主であったことから尾和谷軍兵衛とも呼ばれています。 1572年武…

樺山どんの墓

宮崎県北諸県郡三股町樺山にある樺山どんの墓は島津家4代忠宗の5男 樺山資久の墓といわれています。五輪塔の地輪と水輪のみ残る墓石が樺山資久のものだそう。樺山資久は樺山城を築いてこの地を領したといわれています。

北郷久秀、忠通の墓

宮崎県北諸県郡三股町長田にある北郷久秀、忠通の墓です。 1394年の梶山城の戦いで、梶山城の援軍に駆けつけ戦死しています。 北郷久秀、忠通の墓は梶山城の麓にある大昌寺跡に残されています。 左の北郷忠通の五輪塔の火輪に「聖安」、右の北郷家3代北郷久…

楡井頼仲の墓

鹿児島県志布志市の大慈寺にある楡井頼仲の墓を参拝しました。 楡井頼仲は南北朝時代に南朝方として志布志城(松尾城)を拠点に大隅で勢力を拡大した武将です。 1357年弟の楡井頼重とともに胡摩ヶ崎城(大崎町)で挙兵しますが、北朝方の畠山氏、祢寝氏らに…

楡井頼重終焉の伝承地

鹿児島県曽於郡大崎町假宿には、1357年 胡摩ヶ崎城の攻防で戦死した胡摩ヶ崎城主 楡井頼重終焉の伝承地があります。楡井頼重は南朝方として兄の楡井頼仲とともに、胡摩ヶ崎城で北朝方の畠山氏、祢寝氏らの軍勢と戦いました。 畑の道脇に建つ楡井頼重終焉の伝…

新名爪八幡宮と土持氏供養塔

宮崎市新名爪にある新名爪八幡宮で初詣。 新名爪八幡宮は1181〜1182年に日向地頭であった土持景綱が宇佐八幡宮の分霊を勧請し創建したといわれています。いわば土持氏に縁のある神社です。 新名爪八幡宮の拝殿と本殿。 二の鳥居。 一の鳥居。 二の鳥居の右横…

福岡藩主黒田家の墓@東長寺

福岡県福岡市博多区御供所町にある東長寺に行ってきました。東長寺には福岡藩主 二代 黒田忠之公、三代 黒田光之公、八代 黒田治高公の墓所があります。 黒田忠之公の墓。黒田長政の嫡男で福岡藩2代藩主。 日本で2番目に大きい五輪塔だそう。 黒田光之公の墓…

菅正利、原種良の墓@順心寺

福岡県福岡市博多区にある順心寺。順心寺には黒田二十四騎の菅和泉守正利と原伊予守種良の墓があります。 菅正利の墓。播磨時代から黒田官兵衛に仕え、関ヶ原の戦いで島左近を討ち取る戦功を挙げた武将。 原種良の墓。大友宗麟の家臣である宝珠山氏の一族で…

加藤重徳の墓@節信院

福岡県福岡市博多区にある節信院。節信院には加藤重徳と加藤司書の墓があります。 加藤重徳の墓。伊丹氏の一族で荒木村重の家臣。荒木村重が織田信長に謀反を起こし、有岡城の土牢に黒田官兵衛を監禁した際、その牢番となったのが加藤重徳で官兵衛の世話をよ…

竹森次貞、吉田重成、竹中重次の墓@妙楽寺

福岡県福岡市博多区にある妙楽寺。妙楽寺には黒田二十四騎の竹森石見守次貞、吉田壱岐守長利の次男 吉田壱岐守重成、そして竹中半兵衛の孫にあたる竹中主膳重次の墓があります。 竹森次貞の墓。播磨時代から黒田官兵衛に小姓として仕え、福原助就の高倉山城…

高橋紹運の首塚

福岡県筑紫野市二日市北にある高橋紹運の首塚を参拝しました。 『嗚呼、壮烈 岩屋城址』衰退の大友氏に忠義を尽くした高橋紹運。 1586年 岩屋城の戦い豊臣秀吉の軍勢が来る前に九州制覇を狙う島津氏と、豊臣秀吉が来るまで持ちこたえなければいけない大友氏…

桐山丹波守の墓

福岡県筑紫野市大字山家にある桐山丹波守の墓を参拝してきました。 桐山丹波守は黒田24将の一人で黒田職隆、官兵衛、長政、忠之の4代に仕えた播磨時代からの家臣。1611年に黒田長政から筑前六宿の1つ山家宿の初代代官に任命され、宿駅の創設、冷水峠の開通な…

塚の古址

横浜市港南区日野南5丁目の野庭三谷町公園近くにある「塚の古址(つかのこし)」。小田原北条氏の家臣 吉本氏を弔うために建てられた塚です。 吉本氏は1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡した際、豊臣軍に降伏するのを潔しとせず上野庭に落…

日向御前と肥前有馬氏の墓@本東寺

宮崎県延岡市の本東寺に長崎を代表する戦国大名 有馬氏ゆかりの墓があるので参拝してきました。島原半島を治めたキリシタン大名 有馬晴信の嫡男、有馬直純のときに長崎の島原から延岡(当時は縣)に国替えとなり延岡藩主になります。 本東寺には有馬直純の正…

釣こう院跡(北郷氏の墓所)

都城市庄内町にある釣こう院(ちょうこういん)跡に行って来ました。釣こう院は北郷数久(7代)の菩提寺として建立されたお寺です。 北郷(ほんごう)氏は戦国時代に都城を領した一族で、島津家4代 島津忠宗の6男 資忠が北郷(現在の都城市山田町一帯)の地…

行方弾正直清の墓@円頓寺

東京都大田区蒲田にある円頓寺には、戦国時代の蒲田の武将 行方弾正直清の墓があります。行方弾正直清は小田原北条氏の家臣で1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の合戦において戦死しました。行方弾正直清の弟 日藝は兄の菩提を弔うため、行方弾正直清の館に…

蒲田重武 夫妻と蒲田氏先祖の宝篋印塔@円真寺

江戸蒲田氏の蒲田重武の宝篋印塔がある川崎市の円真寺に行って来ました。 江戸氏の支流、江戸蒲田氏は「六郷殿」と呼ばれ、戦国時代に小田原北条氏の家臣として現在の蒲田(東京都大田区)付近を領し活躍したそうです。 蒲田重武は小田原北条氏滅亡後、土井…

氷取沢間宮氏と宝勝寺

横浜市磯子区氷取沢町にある宝勝寺は氷取沢を領した間宮氏ゆかりの寺で間宮綱信の墓があります。 間宮綱信公の墓。 間宮綱信は北条氏照の家臣。北条氏の使者として織田信長と謁見した武将でも知られます。 間宮綱信の陣屋である氷取沢陣屋跡はマンションが立…

富山石見守の墓

龍虎城内にある富山石見守夫妻の墓です。 龍虎城の武将 富山石見守は庄内の乱で龍虎城に攻めてきた島津の軍勢と日光郷ヶ迫で戦い戦死しました。富山石見守の墓は右側で、墓石には「外山岩見」と刻まれています。

妙円寺跡石塔群

宮崎市生目地区にある妙円寺跡石塔群です。 南北朝時代以降の墓石1237基が整然と並んでおり壮観。 墓石の中には石塚城主 伊東祐武など伊東家にまつわるものもあります。 宮崎市の隠れ穴場スポットとしておすすめです😌💓

石塚城主 伊東祐武の墓

宮崎市大字浮田の妙円寺跡石塔群の中に、石塚城主の伊東祐武の墓があります。門川伊東氏である伊東祐武は応永年間に石塚城を築いて城主となり石塚伊東氏と呼ばれました。石塚城に攻めてきた島津氏の軍勢を撃退しています。 1418年 伊東祐武は本家である都於…

麻生隆守の墓と隆守院

福岡県遠賀郡岡垣町にある岡城主 麻生隆守の墓です。岡城の山腹に祀られています。 右側が麻生隆守公の墓で隆守公の戒名である「松月院」の文字が見えます。左側は麻生隆守の妻、娘?の墓だそうです。 1546年 大友宗麟の家臣 瓜生貞延に岡城を攻められ自刃し…

井上之房の墓@龍昌寺

福岡県遠賀郡岡垣町にある龍昌寺。岡城主 麻生家延の孫 麻生弘繁が開基したた寺で長門の大寧寺の流れを汲むそうです。大寧寺といったら周防の大内義隆が家臣 陶晴賢の謀反にあい自刃した寺でもあります。その大寧寺に関係ある寺が福岡にあるのは麻生氏が大内…

海野藤十郎の墓

日南市東郷の福谷地区には伊東祐兵の家臣 海野藤十郎の墓があります。 戦国時代に現在の宮崎県の大部分を領して伊東氏の全盛を築いた日向国主 伊東義祐。 1572年 木崎原の戦いで伊東義祐は島津氏に大敗し伊東48城の一部の家臣団が次々に島津氏に寝返り、国を…

伊東祐実と油津堀川運河

日南市楠原の報恩寺跡伊東墓地にある飫肥藩5代藩主 伊東祐実の墓。 飫肥藩5代藩主 伊東祐実は薩摩藩との境界争いである牛の峠論山の勝訴、油津堀川運河の開削、日向灘沖大地震の被害を受けた飫肥城の大改修など多くの功績を残しています。洞林(どうりん)公…

伊東祐国の供養塔

飫肥城の北にある東楽寺跡近くには1485年の飫肥城攻めで戦死した伊東祐国(すけくに)の供養塔があります。 伊東祐国は西都の都於郡城主で伊東氏12代当主。 飫肥城主 新納忠続と櫛間城主 伊作久逸が島津家臣同士でありながら仲間割れ。 伊作久逸は伊東氏に援…

伊東平右衛門の墓

日南市南郷町贄波の海岸近くに伊東平右衛門祐続の墓があります。 伊東平右衛門は飫肥城主 伊東祐兵の家臣でしたが、長倉甚兵衛、川崎又右衛門らとともに、伊東義賢(祐兵の兄の子)こそ伊東家の嫡流であり、飫肥の領主は祐兵ではなく義賢がふさわしいと思う…